庄野潤三の世界

庄野潤三インタビュー「巧言令色鮮し仁」まじめなところにしかおかしみも悲しみもない

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中村明「作家の文体」には、庄野潤三のインタビュー「巧言令色鮮し仁(庄野潤三)」も掲載されているので、気になった部分を書き留めておきたい。

俳句や散文詩の影響は?

俳句はほんの趣味程度で、クラスの好きな者同士で作っては見せ合ったくらいですが、自然を見る喜びみたいなものを得て新鮮な気持がしました。それがその後の文章に何か影響があったかと言えば、できるだけ簡潔に書くということでしょうね。

くどくどしく持って回った言い方をしないで勘どころをつかむ。そうしておけば、その周りは言わなくても浮かび上がる。そういう考えは今に至っても変わりませんが、これは最初俳句が好きになったことと関係があるのかもしれませんね。

(『星空と三人の兄弟』を例に)平凡な日常生活に対する感動や憧憬?

兄が戦地へ行く、無事に帰って来たかと思うと今度は二番目の兄が戦争に行く。それがやがて自分の順番になるというようなことで、無事に家族が顔をそろえるのはむずかしい。明日は保証しがたいということが、理屈ではなしに身に染み込んだのかもしれない。

ま、平和な世の中になれば、そういう感じは薄れてしまうはずなんですけれども、あとは自分の性分なんでしょうね。

噂話の聞き書きという形が多い?

直接その事がらを経験した者の口をとおして聞きますと、こちらの想像にふくらみが出るわけなんです。現場に立ち合うよりも、芸術的な喜びと言いますか、新鮮さがあると、いつともなしに考えるようになりました。

それは僕自身の臆病なところが関係しているのかもしれないと思うんです。自分が物事にじかにぶつかるよりも、他人の話を聞いて、その中から自分の好きなものを選り出して、そこに一つの世界を組み立てるほうに気持が惹かれるんですね。

よく小説家は泥にまみれなきゃいけないって言うんですけど、僕は「泥にまみれる」っていうことばが嫌いなんです

(『鍛冶屋の馬』を例に)話し手の会話の中に自然描写が想像の形で入っている?

それは自然描写と言うよりも、僕の気持としてはその時の四季ですね、俳句の季語に当たるものを挿むことによって、周りの空気とか大気というものを読者に感じ取ってもらいたいんで、描写という気持はないわけです。

平明な用語がほとんどだが、誰にでもわかる表現ということか?

はっきりそういう気持がありますね。二つの言い方があって、耳から聞いた場合、片一方はすぐにわからない、片一方はわかるというなら、躊躇なしにわかるほうの言い回しを探る。そうするとおのずと平明になってきますね。

作品の初めと終わりは意識するか?

終わりのほうは、書いて行ってる勢いでひとりでに終わりになるというのが望ましいし、また、大体そうなります。作品の内容でもっておのずと最後に到達したというふうなのがいいように思うんです。

初めのほうは、自分の書きたいことをどうすればうまく引き出せるか、どう入って行くかを考えますけれども、終わりは全くその時まかせです。

(『静物』を例に)人名や地名をはっきり出さない?

東京とか石神井公園とかいうことばが出ることによって読者に生じる連想、そういうものを避けるために、なるべく要素だけにするということですね。世界のどっかの国にこういう男が住んでおりましたというふうな、中村さんのおっしゃるような童話あるいは寓話という気持は僕の中にあったと思います。

もう一つ、私小説という尺度でもって小説を見ると非常に窮屈になるので、ただ、こういう家族がおります、夫と妻、父親と男の子、あるいは女の子というふうな形で出すということを意識していきたいと思いますけれども。

(『鍛冶屋の馬』を例に)人物関係の説明が少ない?

それは僕の悪い癖なんですよ。ただ、それを説明しようとしますと、明夫というのは井村の子で、二人いる男の子の上のほうだというふうなことになるんですけど、それより前に、現在目の前に起こっている、井村がおもしろいと思っている話を読者に伝えたいものですから、できるだけ手間を省略してしまうんです。

しまいまで読んでもらえればその一家のことがわかるだろうという気持なんですが、それは僕の不親切で、よくわかるように最初にちょっと入れておいたほうが、ほんとはいいんでしょうね。

挿話の配列の順番に意味はある?

『静物』なんかの場合ですと、あの小説が成り立つかどうかは、その順序によると言っていいぐらい自分では苦しんだわけです。極端に言えば、三番目と四番目を逆にしたら作品は成り立たない。作者の中にある一つの美的世界を築くためには、その順序とか間の空白が必然的なものでなきゃならない、という気持があります。

(『鍛冶屋の馬』を例に)連作短編は長篇とは呼べない?

テーマはこれで、導入部はこれで、こういうプロットで、最後はこうなる式のヨーロッパ風の長編ははなはだ不得手ですから、ああいうふうにエピソードを綴ったものが積み重なって一つの長編的な世界を成すという形になる。つまり短いものを書く書き方でしか書けないんですよ、僕は。

あれは一編ずつ独立しても読めるけど、順序を変えずに通して読んでもらいたい、、それによって奥行きが伝われば、という考えですから、作者の気持としては長編と言ってもいいと思います

文章が変わってきたと感じることは?

古い原稿用紙を見て、こんな字を書いてたのかなと思うことがありますから、文章も少しずつ変わっていってるんじゃないですか。ある時期はさっきの英語の会話みたいにポキポキした感じがありましたね。

『静物』のころは、枝葉を取り去る、センテンスも短く短く、ということを考えすぎて気持のゆとりがなかったと思います。今はもう少し柔らかさ、しなやかさが出てきてると思うんですね。

ふくらみのある文章が理想ということか

そう、ふくらみというのはいいことばですね。彫琢した文章よりも内容が大事で、内容が優れていればおのずといい文章になる。いい文章には必ずいい内容があるはずだから、文章の外形を彫琢するんじゃなくて、書く内容に思いを致すことが大事だと思うんですよ。巧言令色鮮し仁という考えで書いて、しかも読後にふっくらとした印象が残るのがいい文章なんですね。

美しい文章と言われることに抵抗はあるか?

それより、ユーモアがあると言われたほうがうれしいですね。僕が求めてるのは美しい文章じゃなくて、読んでるとひとりでに笑えてくるような文章なんです。ユーモアっていうのは出そうとして出せるもんじゃないんですけどね。

滑稽味というよりもヒューマー?

そう、イギリス風に言えばヒューマーですね。人間の生活を見てますと、わざとらしいのはちっともおかしくなくて、人間がまともに生きてるのを見ると、どっかしらおかしいところがあるものですね。まじめなところにしかおかしみも悲しみもない、というのが僕の文学観なんです。

書名:作家の文体
著者:中村明
発行:1972/12/10
出版社:筑摩書房

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じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。庄野潤三さんの作品を中心に、読書の沼をゆるゆると楽しんでいます。