外国文学の世界

サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」翻訳読み比べ~野崎孝VS村上春樹

青春小説の名作として名高い『ライ麦畑でつかまえて』(J.D.サリンジャー)の日本語訳には、2つの種類があります。

翻訳者は、野崎孝と村上春樹の2人ですが、初めて『ライ麦畑』を読む人は、どっちを選ぶべきか、悩みますよね。

今回は、2人の訳者による『ライ麦畑』を読み比べて、それぞれの特徴をご紹介してみたいと思います。

『ライ麦畑でつかまえて』のあらすじ

『ライ麦畑でつかまえて』は、アメリカの小説家、J.D.サリンジャーの書いた長編青春小説です。

発表は1951年(昭和26年)で、このとき、作者のサリンジャーは31歳でした。

この小説は、社会や他者との折り合いを付けることができない16歳(当時)の少年<ホールデン>が、クリスマス休暇を前に学校を飛び出してしまい、冬のニューヨークの街をさまようという物語です。

訳者の野崎孝は、その解説の中で「作品の基本的性格を単純化して言えば、子供の夢と大人の現実の衝突ともいえるだろう」と綴っています。

いつの世にも、どこの世界にもある不可避的現象だ。純潔を愛する子供の感覚と、社会生活を営むために案出された大人の工夫の対立。子供にとって、夢を阻み、これを圧殺する力が強ければ強いほど、それを粉砕しようとする反発力は激化してゆくだろう。(野崎孝『ライ麦畑でつかまえて』解説)

村上春樹の言葉を借りると「社会(世間)から脱落していこうとしている少年の恐怖心を、ずいぶんリアルに描いた物語」(「僕の中の『キャッチャー』)ということになります。

結局のところ、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という小説は、世の中のほとんどの人々が自分の姿をそこに映すことのできる、個人的な鏡として機能してきたのだという気がする。(村上春樹「僕の中の『キャッチャー』)

ホールデンの自分勝手な考え方や行動は、大人と価値観を共有することのできない若者たちから圧倒的な支持を受け、現代青春小説の古典として、今なお世界中で愛読されています。

「ライ麦畑でつかまえて」の社会的影響

『ライ麦畑』の社会的影響は数多くありますが、庄司薫の芥川賞受賞作『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969)は、『ライ麦畑』との強い類似性が指摘されている、日本の青春小説です。

村上春樹の大ベストセラー小説『ノルウェイの森』(1987)の中にも、『ライ麦畑』は登場しています。

レイコさんは目の端のしわを深めてしばらく僕の顔を眺めた。「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ」と彼女は言った。「あの『ライ麦畑』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」「まさか」と僕は言って笑った。(村上春樹『ノルウェイの森』)

『ノルウェイの森』の舞台は1969年(昭和44年)ですが、1964年(昭和39年)に出版された野崎孝さんの『ライ麦畑でつかまえて』が、大きな反響を呼んでいる様子が分かりますね。

1980年(昭和55年)に、マーク・チャップマンがジョン・レノンを暗殺したとき、『ライ麦畑』を持っていたのは有名な話で、警察が到着するまでの間、チャップマンは殺害現場にとどまり、『ライ麦畑』を読んでいたそうです(チャップマンは、法廷においても『ライ麦畑』を読み上げている)。

1981年(昭和56年)に発生した、ロナルド・レーガン大統領暗殺事件の犯人、ジョン・ヒンクリーも、『ライ麦畑』を愛読していたと伝えられています。

『ライ麦畑』の作者J.Dサリンジャーの来歴を描いた評伝映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』は、文学好きの方におすすめの作品です。

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「ライ麦畑でつかまえて」の日本語訳作品

日本での翻訳は、橋本福夫の『危険な年齢』(1952)が最初ですが、残念ながら、現在では入手困難です(本当はすごくおすすめしたいのですが)。

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現在、普通に入手できるのは、野崎孝『ライ麦畑でつかまえて』(1984)と、村上春樹『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(2003)で、いずれも、版権を独占所有している白水社から出版されています。

日本国内で圧倒的に有名な『ライ麦畑でつかまえて』という作品名は、野崎孝さんが翻訳したものです。

もともと、野崎さんは、1964年(昭和39年)に『ライ麦畑でつかまえて』を翻訳出版しているのですが、1984年(昭和59年)に改訳したものが、現在の定番となっています。

野崎孝さんは『ライ麦畑でつかまえて』の訳者として超有名な翻訳家ですが、『ライ麦畑』以外にも、フィッツジェラルド『偉大なるギャツビー』(1957)も、『グレート・ギャツビー』の邦訳としては、定番と言える人気作品です。

対する村上春樹さんも、『グレート・ギャツビー』(2006)を翻訳しているので、『ギャツビー』と『ライ麦畑』を読むときは、野崎版と村上版のどちらを読むべきかで悩むのが、近年の大きな問題となっています。

今回は、野崎さんと村上さんの『ライ麦畑』を読み比べて、どちらの翻訳がおすすめなのか、考えてみたいと思います。

タイトル『ライ麦畑でつかまえて』

野崎版と村上版の最も大きな違いは、その作品名です。

サリンジャーの原題『The Catcher in the Rye』を直訳すると、「ライ麦畑の中にいるキャッチャー(捕まえる人)」ということになります。

「キャッチャー」は、野球のポジションにある「捕手」のことなので、「ライ麦畑の中にいる捕手」と訳すこともできます。

いずれにしても、野崎孝の『ライ麦畑でつかまえて』は、明らかに原題とは異なった翻訳です。

村上版では、誤訳を許せない訳者の性格を反映してか、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と、カタカナ表記になりました。

日本では「ライ麦畑でつかまえて」のタイトルが既に定着しており、これに対抗する日本語タイトルを付けることは、今さら難しかったという裏事情もあったようです。

村上「ただ、僕が一九六〇年代の初めにこの本を訳出するとしたら、それはやはり『ライ麦畑でつかまえて』みたいな題にしていたかもしれませんね。同じ「なんのこっちゃ」にしても、情報が行き渡っていないときには、日本語のほうがまだ受け入れられやすいだろうから。しかしこの本のことがここまで知れわたった今となっては、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』でいったほうがむしろいいだろうと、僕は思うんです」(村上春樹・柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」)

原題とは異なりますが、僕自身は「ライ麦畑でつかまえて」の翻訳は、意訳であっても誤訳だとは感じません。

「ライ麦畑でつかまえて」は、社会の崖っぷちに立たされている子どもたちの悲鳴であり、そんな子どもたちのSOSこそが、この物語の大切なメッセージとなっているからです。

読み方によっては、「ライ麦畑でつかまえて」は、主人公ホールデン自身の悲痛な叫びと受けとめることができます(というか、むしろ肯定的にそう受け止めたい)。

なので、タイトルの訳が間違っているかどうかということに、あまりこだわる必要はないと思います。

ただし、正確な訳であるべきかどうかという翻訳に向けた姿勢は、どちらの訳を選ぶかというときに、大きなポイントになります。

野崎版は雰囲気重視の意訳、村上版は正確性重視の適訳という特徴があるからです。

社会への反逆か? オルターエゴか?

この物語をどのように解釈するかということも、翻訳には大きく影響を与えそうです。

一般的に『ライ麦畑』は、際どいスラングや暴力的な描写が多く、キリスト教を冒涜するような表現もあって、ホールデンの反社会性に着目されることが多いようです(禁書扱いというか、発禁処分になった理由も、こうした表現的な理由によるところが大きかった)。

野崎孝の『ライ麦畑』では、こうしたホールデンの反社会性に着目した翻訳が行われていて、ちょっと普通ではないホールデンの話し言葉も、ホールデンの個性を引き出す上で、大きな効果を上げています。

一方の村上春樹は、ホールデンの内面性に着目して、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を翻訳しています。

村上「ひとつの考え方としては、「君」というのが自分自身の純粋な投影であってもおかしくないということです。それがオルターエゴ(もうひとつの自我)的なものであってもおかしくない」(村上春樹・柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」)

村上春樹的解釈にあっては、『キャッチャー』の登場人物は、すべてホールデン自身の投影ということになるため、物語内の会話は、自己対話としての意味を持ちます(村上春樹の『海辺のカフカ』に近いイメージ)。

村上「それから、DBとかフィービー、アリー、そういうホールデンの兄弟姉妹に関して言えば、これはもう完全に自己の分身的な存在ですよね。(略)妹のフィービーは、幼児的イノセンスがもっとも強く、理想的なかたちで結晶した生身の姿なんじゃないかな」(村上春樹・柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」)

フィービーがホールデンに呼びかけるとき、野崎孝の『ライ麦畑』で「兄さん」となっているところが、村上春樹の『キャッチャー』で「あなた」となっているのは、フィービーもまたホールデン自身であるという、訳者(村上春樹)の解釈を前提としたものなのです。

従って、野崎孝の『ライ麦畑』と、村上春樹の『キャッチャー』を読んだ後では、物語に対しる解釈にも、大きな違いが生じる可能性があります。

野崎孝の『ライ麦畑』では、ホールデンの不良性が必要以上に強調されているし、村上春樹の『キャッチャー』では、そうしたホールデンの不良性は必要以上に抑制されている。

翻訳を選ぶときには、こうした訳者の解釈の違いにも注意しておいた方がいいみたいです(翻訳である以上、どちらが正解というものではないので)。

「ライ麦畑のつかまえ役」と「ライ麦畑のキャッチャー」

次に、物語の主要なテーマとなっている「ライ麦畑でつかまえて」が、本文中に実際に出てくる場面を引用して、二つの翻訳を読み比べてみたいと思います。

これは、主人公ホールデンが唯一心を許すことのできる妹<フィービー>と会話する中に出てくる場面です。

「僕が何になりたいか教えてやろうか」「僕が何になりたいか言ってやろうかな? なんでも好きなものになれる権利を神様の野郎がくれたとしてだよ」と、ホールデンは言います。

「君、あの歌知ってるだろう『ライ麦畑でつかまえて』っていうの」とホールデンは続けますが、「それは『ライ麦畑で会うならば』っていうのよ!」「あれは詩なのよ。ロバート・バーンズの」と、妹に諭されます。

「僕はまた『つかまえて』だと思ってた」と僕は言った。「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない──誰もって大人はだよ──僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ──つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝・訳)

次に、村上版を見てみましょう。

「てっきり『誰かさんが誰かさんをライ麦畑でつかまえたら』だと思ってたよ」と僕は言った。「でもとにかくさ、だだっ広いライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね」(サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹・訳)

本文中で「Catcher in the Rye」は、野崎版では「ライ麦畑のつかまえ役」、村上版では「ライ麦畑のキャッチャー」となっていますね。

バーンズの作品名を言い間違えているところは、野崎版の「僕はまた『つかまえて』だと思ってた」に対し、村上版では「てっきり『誰かさんが誰かさんをライ麦畑でつかまえたら』だと思ってたよ」と正確な分だけ説明っぽい文章になっています。

『ライ麦畑』に限りませんが、「正確だけど説明っぽい」というのが、村上春樹の翻訳の特徴だと、僕は考えています。

高校の授業で、英語の先生が教えてくれる正解みたいな訳というか。

一方で、台詞の最後の部分で、野崎版の「馬鹿げてることは知ってるよ」に対し、村上版では「たしかにかなりへんてこだとは思うけど」となっているところもポイントです。

村上版ではホールデンの個性を表現するために「へんてこ」という言葉をつかっているのですが、こういう日本語のチョイスも、気になる人は気になるかもですね(「頭が羊羹みたいになっちゃった」とか「蓮根アタマ」とか、村上春樹の訳には、かなり日本語的な意外性があります)。

一方で、野崎版ホールデンの話し方の特徴としては「一日じゅう、それだけをやればいいんだな」があります。

村上版では「そういうのを朝から晩までずっとやっている」になっていますから、「それだけをやればいいんだな」は、かなりクセのある訳だと思われます(このクセのある話し方が、ホールデンの特徴ともなっている)。

当時、野崎孝は、ラジオの深夜放送から、ホールデンの話し方のヒントを得たと伝えられているだけに、時代のリアリティのようなものが感じられます。

ちなみに、『ライ麦畑』を訳したとき、野崎孝は47歳、村上春樹は54歳でした。

17歳の少年ではない大人が訳した「17歳の少年のモノローグ」というところは、いずれの訳にも共通している部分ですね。

初めて『ライ麦畑』を読むときは、そんなところにも注意するといいと思いました。

まとめ

ということで、以上、今回は、サリンジャーの名作『ライ麦畑でつかまえて』の日本語訳について、野崎孝版と村上春樹版で読み比べてみました。

結論としては、当時の雰囲気を含めて味わいたい人は野崎孝『ライ麦畑でつかまえて』を、現代的な感覚で読みたい人は村上春樹『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を選択すると良さそうですね。

まあ、できれば、両方を読み比べてほしいというのが本音ではありますが(笑)

書名:ライ麦畑でつかまえて
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
発行:1984/5/20
出版社:白水社

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書名:キャッチャー・イン・ザ・ライ
著者:J.D.サリンジャー
訳者:村上春樹
発行:2003/4/20
出版社:白水社

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青いバナナ
アンチトレンドな文学マニア。推しは、庄野潤三と小沼丹、村上春樹、サリンジャーなど。ゴシップ大好き。