日本文学の世界

井上靖「晩夏」ピュアな少年時代の初恋物語は夏の終わりに読みたい

井上靖「晩夏」あらすじと感想と考察

そろそろ夏の終わりが近づいてきたので、井上靖の「晩夏」を読みました。

この小説を読むと、今年の夏もいよいよ終わりだなあと感じるのです。

書名:少年・あかね雲
著者:井上靖
発行:1978/10/27
出版社:新潮文庫

作品紹介

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「晩夏」は井上靖の小説です。

初出は1952年(昭和27年)の「別冊新潮」で、単行本は同年刊行の『黄色い鞄』(小説朝日社)で書籍化されました。

新潮文庫のほか旺文社文庫にも収録されています。

中学校の国語の教科書にも掲載されていたので、授業で読んだことがある人は、きっと少なくないと思います。

新潮文庫「少年・あかね雲」には、少年時代の懐かしい情景を描いた短篇作品18編が収録されています。

(目次)帽子/魔法壜/滝へ降りる道/晩夏/少年/帰郷/黙契/白い街道/ある女の死/ハムちゃんの正月/とんぼ/馬とばし/岩の上/裸の梢/夏の焰/あかね雲/眼/魔法の椅子

あらすじ

子供はただ遊びほうけるだけの素朴な存在ではない。

獣にも似た鋭い嗅覚を持ち、大人もおよばない豊かな感性を内に秘めている。

――本書は、はるか彼方に過ぎ去った少年時代の懐かしい情景を、幼い魂に映じた大人の世界を、自伝風にあるいはフィクションをまじえて描いた珠玉作18編を収録する。

少年の心の機微を見事に浮き彫りにし、清冽な詩情とさわやかな郷愁のあふれる一巻。

(背表紙の紹介文)

なれそめ

井上靖の「晩夏」を読んだのは、中学校の国語の教科書に載っていたからです。

もしかすると、自分が中学生の時に習ったのではなくて、進学塾講師のアルバイトをしている時、中学生に教えたことが最初だったかもしれません。

いずれにしても、「晩夏」は国語の教科書を入口にして知った作品で、大人になってから、新潮文庫の「少年・あかね雲」に収録されているものを読み返しました。

今では、夏の終わりが来るたびに読み返してしまう、お気に入りの一冊になっています。

本の壺

心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、本の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。

砧きぬ子という少女雑誌から脱け出したような病弱な少女

私が、砧きぬ子という少女雑誌から脱け出したような病弱な少女に、初めて思慕の情を燃やしたのもやはりこの夏と秋の、二つの季節に挟まれた期間のことであった。その時私は小学校の四年か五年だったので、十一、二歳であったわけである。(井上靖「晩夏」)

井上靖の「晩夏」は、「私は八月の終りから九月の初めへかけての、夏の終りの極く短い何日かが好きである。殊にその期間の海浜が好きである」という二行から始まります。

それは「夏と秋の、二つの季節に挟まれた期間」のことで、タイトルの「晩夏」は、この「夏の終りの極く短い何日か」を端的に示した言葉です。

ある年の夏の終わり、「私」は「砧きぬ子という少女雑誌から脱け出したような病弱な少女に、初めて思慕の情を燃やし」ました(「初恋」ですね)。

「少年の私が砧きぬ子という自分より二つ三つ年長らしいその少女に、異様な執着と思慕の情を燃やしたのは、もう数える程しか避暑客が村に居なくなった八月の終りだった」のは、「都会の多くのきらびやかな物が村から引き上げて行って、急に私たちは一人前の子供としての資格を取り戻した」からだったのでしょう。

「海浜が寂びれ、私たちが自分の海浜を取り戻した時、私は初めて、その少女を一人の美しい少女として見出した」「村の子供たち全部が、私と同じようであった」と思い出されるくらいに、砧きぬ子は、この貧しい漁村の子供たちにとって強い関心の対象となっていきます。

なにしろ、砧きぬ子の一家は、ひと夏の間中「部落で一番大きい旅館の離れ全部を借りている」都会のお金持ちで、「毎日西瓜を食べている」とか「牛乳を何本取っている」などといった「そんな田舎の生活ではちょっと考えられぬ贅沢な暮し向きの噂」が、漁村中で話題となっているほどだったのですから。

「兄さん、抱いてよ」明らかに砧きぬ子の声であった。

「兄さん、抱いてよ」明らかに砧きぬ子の声であった。その声は磯臭い夜風といっしょに、妙になまめかしく私の耳に聞こえた。「もう、およしなさいよ、莫迦ね」こんどは彼女の母の声だった。「いやよ、抱いてよ、もう一度だけ」(井上靖「晩夏」)

「晩夏」では、ドラマチックな展開が待っているわけではなく、少年時代の記憶に残るいくつかの他愛ないエピソードが織り込まれて作品を構成しています。

漁村の子供たちが集まって、海岸を散歩する砧きぬ子を囃し立ててからかう話。

父の使いできぬ子の宿へ魚を届けるが、代金を受け取らずに帰ってしまった話。

そして、夕方の海岸で、砧きぬ子が「兄さん」と呼ぶ若い男に「もって抱いて」とせがんでいる様子を目撃してしまう話。

「私は、なぜか、その時、堪らなく、きぬ子を抱き上げたその男が憎かった」「心の中にはやはり嫉妬に似た感情が湧いた」といったくだりが、少年の純粋で無器用な初恋を物語っています。

「私」は遊び仲間の料理屋の輝夫を呼び出し、「きぬ子をいじめる東京の奴がいる。いけない奴だ。やっつけよう」と持ちかけ、部落の子供たちを集めて、この若い男性を襲撃します。

十四、五人の子供たちが「いっせいに喚声を上げて」「いっせいに石を彼に向って投げ出した」シーンは、この短篇小説のささやかなクライマックスと呼んでいいでしょう。

若い男の反撃から逃れた「私」は、「戦い終った者の持つ感傷的な気持で暗い海を眺め」ます。

間もなく、夏が終わろうとしていました。

私は突然、自分でも理解できぬ衝動を感じて、バスを追いかけて走り出した。

バスの中に一行が収まってしまうと、徐々に私たちはバスに近寄って行った。私たちがバスのすぐそばまで行った時、バスは動き出した。私は突然、自分でも理解できぬ衝動を感じて、バスを追いかけて走り出した。(井上靖「晩夏」)

やがて、「この夏の最後に引き上げて行く避暑客として、砧一家はバスでこの村を離れ」ていきます。

登校時に遠くから砧きぬ子を見送った「私たち」は、きぬ子を乗せたバスを夢中で追いかけていきます。

「私にまねて、子供たちはみんな走り出した」「二十メートルほど駆けて停まったが、他の連中は停まらず、どこまでもバスと一緒に走って行った」「間もなく、一人ずつバスから落落伍した」「最後に一人だけバスの横手を必死になって駆けている少年の姿が見えた。輝夫だった」と続くこの場面は、感動的なラストシーンを演出しています。

砧きぬ子が村を去ることは、彼らの初恋が終わってしまうことを意味しており、走り去るバスは、彼らの初恋そのものでもありました。

そして、砧きぬ子を乗せたバスは消え、夏の終わりと同時に彼らの淡い初恋も終わりを告げたのです。

全体にとても短いお話なのですが、物語の引き際が非常に見事に描かれていて、夏の終わりの情感を豊かに表現している作品だと、今回も感じました。

読書感想こらむ

「本の壺」には入れなかったのですが、この小説の中で、僕が一番好きなシーンは、物語の最後の二行です。

「その日は、完全に夏が終って、村へ秋がやって来た日であった。夏が完全に逃げ去ってしまう合図に、夕方から夜にかけてひどい雷雨が海浜一帯の村々を襲った」。

子供たちと砧きぬ子との関わりを離れて、突然に物語は俯瞰的になり、夏の終わりを告げる雷雨が村を襲ったところで、作品は幕を閉じます。

このラスト二行が、「晩夏」という短い作品を歴史に残る名作へと仕上げているのではないかと、僕は解釈しています。

全体に短い作品だからこそ、最後の二行で、まるで長い映画のエンディングのような効果をもたらしているのではないでしょうか。

毎年、僕は、夏の終わりに雨が降ると「ああ、今年も夏の終わりの雨だなあ」と思うのです。

まとめ

井上靖の「晩夏」は、漁村で暮らす少年の淡い初恋を描いた短篇小説です。

他愛ないエピソードで構成されていますが、夏の終わりの情感をたっぷりと感じることができる、まさしく名作です。

大人になって読み返すと、また新しい発見ができますよ。

著者紹介

井上靖(小説家)

1907年(明治40年)、北海道旭川生まれ。

1950年(昭和25年)、『闘牛』で第22回芥川賞を受賞。

「晩夏」発表時は45歳だった。

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ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。