読書感想文

林芙美子「放浪記」貧困の中で生きる女性の生命力と文学への情熱

林芙美子『放浪記』読了。

『放浪記』は、林芙美子の書き溜めた日記の中から任意の箇所を抜き出して構成された小説である。

日記風でありながら、あくまでも日記の断片であるから、物語としてつながらない部分が多いし、そもそも小説としての体裁を成していないとも言える。

それでも『放浪記』が魅力的な文学作品となっているのは、著者(林芙美子)の生きることに対する執着が、とことんまで力強く描かれているからだろう。

林芙美子「放浪記」新潮文庫林芙美子「放浪記」新潮文庫

行商をして暮らす義父と母のもと、木賃宿を転々としながら育てられた芙美子は「私は宿命的に放浪者である」と書いている。

やがて、大人になった後も芙美子は、職を転々と変えながら住居を転々と変えていくという、まさに放浪生活の中で生きていく。

食うためには働かなければならない、働けば文学をやっている時間がない、文学をやれば食うことができない。

文学と生活との葛藤の中で芙美子は、カフェーの女給や菓子工場・セルロイド工場の女工、大学教授宅の女中などの職を転々とするが、どれも長く続くことはない。

時に、上京してきた母と一緒に行商をして暮らすこともあるが、どれだけ働いても暮らし向きが良くなることは一向にない。

いつでも芙美子は、食べることしか考えられないくらいに飢えていた。

「米屋で貰った糠を湯でといて食べる」「かんぴょうでもいいから食べたい」「白菜の残りをつまみ、白い御飯の舌ざわりを空想する」。

『放浪記』は「空腹日記」であり「貧困日記」でもある。

芙美子は考えられるすべてのところでわずかな金を借りて飢えを凌ぐが、借りた金はあっという間に尽きて、再び飢えてしまうという生活を続けていかなければならない。

絶望的な貧困生活の中で、芙美子は何度も自殺を考え、売春宿へ身を売ることを考える。

しかし、死を意識しなければならないほど追い込まれているのに、彼女はその都度ギリギリのところで踏み止まり、決して一線を越えることはない。

「いっそ死んでしまいたい」「売春婦になってしまおう」と考えながら、決して堕ちていくことなく、芙美子はたくましく誠実に生きていこうとする。

極貧生活の中で僅かな小遣いが溜まったからといって、田舎の母親へ仕送りをしてやる芙美子の姿には、胸を打たれるものがある。

もちろん、年頃の芙美子には一緒に暮らした男性があったし、結婚をしたこともあったが、男運は決して良くはなかった。

結婚を約束して学生時代に面倒を見てやった男は、大学を卒業すると芙美子を置いて故郷へ帰ってしまう。

結婚をした役者は女優と浮気をして家を出てゆき、一緒に暮らした詩人は激しい暴力を芙美子に振るった。

時に結婚を、時に売春を、時に自殺を考えながら、芙美子は想像を絶する生命力を持って、この厳しい人生を自立した一人の女性としてたくましく生き続けていく。

逆境の中で自暴自棄になることもなく、芙美子に生き抜くことを執着させた最大の原動力は、日記の中にも常に登場する「文学」への強い思いだろう。

文学に生きるために、芙美子は貧困という苦難の道をまっすぐに歩き続けたのだ。

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『放浪記』の元となった日記は、大正後期の5年間に綴られたものであり、『放浪記』として発表されたのは昭和5年のことである。

この作品は、直ちに『続放浪記』を出版するほどのベストセラーとなったが、貧しい暮らしの中でたくましく生きる女性の姿が、庶民の支持を得たことは想像に難くない。

皇族に関する描写など、戦前の社会で発表することのできなかった部分は、戦後になって『放浪記第三部』として発表され、過去の作品はそれぞれ「第一部」「第二部」という扱いとなった。

現在、新潮文庫では、第一部から第三部までを一冊にまとめた完全版の形で読むことができるが、第一部から第三部まで、それぞれが日記の断片の抜き書きを収録する形となっており、ストーリーに一貫性はない。

いずれも同時期に書かれた日記の断片であり、第一部に収録されなかった部分が、第二部あるいは第三部で収録されているという形になっている。

言ってみれば『放浪記』はストーリーを追求するものではなく、断片的な日記の中に込められた「生きることへの激しい執着心」と向き合う小説のような気がする。

まるで詩のように綴られる美しい文章は、貧困の中でたくましく生きる女性の美しさそのものだ。

書名:放浪記
著者:林芙美子
発行:1979/9/30
出版社:新潮文庫

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じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書ブログを立ち上げました。村上春樹さんと庄野潤三さんの作品をゆるゆる楽しんでいます。