庄野潤三「蛇使い」読了。
本作「蛇使い」は、長篇随筆「エイヴォン記」の連載第九回目の作品であり、「群像」1989年(平成元年)4月号に発表された。
単行本では『エイヴォン記』(1989、講談社)に収録されている。
現在は、小学館 P+D BOOKS から刊行されているものを入手することが可能。
「わあ、風船だァって。フーちゃん、風船が好きなの」
午後の散歩の帰り、清水さんから侘助と薔薇の花束をもらった。
「咲きませんでしょう」というのが、清水さんの口癖だ。
薔薇の花の名前を、清水さんはハガキで知らせてくれた。
レッド・ライオン、ヤーナ、マダム・ヴィオーレ、くすんだ黄色がブロンズ・マスターピース、淡紅色がデンティベス。
『エイヴォン記』を読んでいると、いろいろな薔薇の名前が出てくる。
薔薇には、こんなにたくさんの名前があったのかと驚いてしまうほどだ。
作品名にある「エイヴォン」も、そう言えば、清水さんからもらったバラの名前だった。
バラは、フーちゃんにとって、いい遊び道具にもなってくれる。
図書室で。赤い、小さなバケツに入っている薔薇の花びらを掬って、細長い箱の蓋へ入れる。はじめはスコップで掬っていたが、手でつかんで入れる。今度は蓋のなかの花びらをバケツに明ける。また、手でつかみ出す。しばらく薔薇の花びらで遊ぶ。(庄野潤三「蛇使い」)
『エイヴォン記』の連載も後半になると、フーちゃんを中心とする庄野家の家族日誌という体裁が、すっかりと定着している。
挿入されているエピソードの数も多い。
東京ガスの営業所の前で風船を配っているのをもらった。
妻は「フーちゃんに風船渡しに行って来ます」といって出かけた。
妻はフーちゃんを抱き上げた。フーちゃんは、開き戸のところの風船を見つけて、「わあ、風船だァ」といって、よろこんだ。そこまで聞いた私は、「フーちゃん、日本語を話すのか」あまり物をいわない子がそんなことをいったから、驚いた。「わあ、風船だァって。フーちゃん、風船が好きなの」(庄野潤三「蛇使い」)
フーちゃんは、2歳半の女の子である。
まったく物を言わないということはないだろうが、庄野さんが「フーちゃん、日本語を話すのか」と驚くくらいだから、あまり言葉を発しないことは確からしい。
そんな子が「わあ、風船だァ」と言ったのだから、祖父母としてはうれしかったに違いない。
新日本少年少女文庫の『志那文学選』
ところで、今回も庄野さんの好きな文学作品が紹介されている。
戦前の昭和15年7月に、新日本少年少女文庫のなかの一冊として刊行された、佐藤春夫編『志那文学選』(新潮社)に入っている「蛇使い」だ。
昭和17年1月10日三刷とある。
昭和17年といえば、庄野さんは九州の大学に進学して、福岡の町で下宿生活をしている頃だ。
長編小説『前途』にも出てくるが、この頃、庄野さんは佐藤春夫の著作を集めていたらしい。
興味深いのは、今回紹介する「蛇使い」には子どもの登場人物が出てこないところだ。
実は『エイヴォン記』で紹介される文学作品には、ここまで必ず少年や少女が登場していた。
僕はそれを、フーちゃんのエピソードとの調和を保つための、作者の仕掛けだろうと考えていた。
ところが、今回に限って子どもが登場しないので「おやっ」と思った。
出てくるのは、蛇使いの男と、二匹の蛇だけである。
もっとも、大きな蛇(二青)が小さな蛇(小青)を連れてくるという話なので、小青が子どもの役割を果たしていると考えることもできる。
あるいは、フーちゃんが茶の間で遊んでいる「クマさん」「ウサギさん」「ニャンニャン」に触発されて、動物の話を紹介したくなったのかもしれない。
新日本少年少女文庫の『志那文学選』は、まだ未読。
いずれは入手して「蛇使い」の話を読んでみたいと思う。
書名:エイヴォン記
著者:庄野潤三
発行:2020/2/18
出版社:小学館 P+D BOOKS