外国文学の世界

シェイクスピア「ハムレット」殺すからには地獄へ送りたいという究極の復讐劇

シェイクスピア「ハムレット」あらすじと感想と考察

ウィリアム・シェイクスピア「ハムレット」読了。

本作「ハムレット」は、1601年頃に書かれたと推測されている戯曲(復讐悲劇)である。

この年、著者は37歳だった。

オフィーリアの「悔いと悔やみ」

庄野潤三『夕べの雲』に『ハムレット』の話が出てくる。

「ムカデ」という章で、大きなムカデが出て、夫婦が困っているという場面だった。

二晩も続けて、寝ている部屋へ出るとは、どうしたことだろう。これでは、「ハムレット」の劇に出て来るように、不寝番の見張りを立てなくてはいけない。「して、かの物は今夜も出ましたかな?」「まだ何も見ません」というようなことをいわなくてはいけない。(庄野潤三「夕べの雲」)

これは、先代のデンマーク国王が急死した後に、謎の幽霊が現れるようになった冒頭の場面である。

庄野さんは、この『ハムレット』の引用がお気に入りらしくて、ムカデから脱線した『ハムレット』の話は、その後も続いている。

しかし、見張りを立てるにしても、大浦と細君の二人でやらなくてはならない。「ようこそ刻限通りお出でなされた」「丁度十二時を打ったところだ。お休み」「御交替、まことにかたじけない。ああ、ひどく寒い。心の臓が痛みます」そういう会話を夫婦でしなくてはいけない。(庄野潤三「夕べの雲」)

単行本の「あとがき」によると、この『ハムレット』は、1929年(昭和4年)に新潮社から刊行された『沙翁傑作集』収録の、横山有策の訳によるものだった。

お気に入りのフレーズを引用して、楽しみながら小説を書いている様子が伝わってくる。

つまり、『ハムレット』の楽しみ方には、いろいろな形があるということだ。

別に、難しく解釈することだけが、シェイクスピアではないだろうという、大らかな鑑賞の姿勢に好感が持てる。

同じようなレベルで『ハムレット』を読むと、おもしろい警句がたくさん見つかった。

オフィーリアから「ハムレットが狂った」と聞いた宰相ポローニアスは、以前に、ハムレットと距離を置くようにと娘に諭した自身の言葉を反省する。

【ポローニアス】どうもわしのように年を取ると、つい取り越し苦労をしがちだが、こうなると若い者の無分別といい勝負だな。(ウィリアム・シェイクスピア「ハムレット」松岡和子・訳)

最後には、クローディアスと間違えられてハムレットに殺されてしまう最期まで含めて、この宰相ポローニアスは、いい味を出している。

可憐な少女オフィーリアの父親でもあり、国王クローディアスの腹心でもあり、軽薄とは言いながらも美味しい役どころの人物だ。

一方で、父親ポローニアスと恋しいハムレットの間で振り回されて気が狂い、最後には入水自殺してしまうオフィーリアは、ただただ気の毒な少女である。

【オフィーリア】あなたにはおべっかのウイキョウと不倫のオダマキ。あなたには悔いと悔やみのヘンルーダ。私の分も少しね。これは安息日の恵み草とも言うのよ。それぞれ違った意味を込めてつけましょう。(ウィリアム・シェイクスピア「ハムレット」松岡和子・訳)

「不倫のオダマキ」を与えられたのは、先代国王の弟クローディアスに寝取られてしまった王妃ガートルードだろう。

先代国王を暗殺したクローディアスが手にしたものは、王位と王妃であり、王妃の裏切りこそが、この物語において重要な役割を果たしているからだ。

「悔いと悔やみのヘンルーダ」は、クローディアスとオフィーリア自身に与えられたものと読むべきか。

オフィーリアに「悔いと悔やみ」があったとしたなら、それは、父親ポローニアスの口車に乗って、愛するハムレットに冷たい態度を取ってしまったことだったに違いない。

兄嫁ガートルードを寝取ったクローディアスに、果たして「悔いと悔やみ」があったかどうかは分からないけれど。

どうやら、明治の日本男性にとってオフィーリアは特別の女性であったらしく、島崎藤村が敬愛する北村透谷も、オフィーリア推しだったという話が、福原麟太郎の随筆にある。

『文学界』の会合で北村透谷が「宿の手拭片手に『何れを君が恋人と、わきて知るべきすべやある』と、オフィーリア狂乱の所作事を一とさし見せた」(禿木「文学界前後」)という話も思い出された。つまりオフィーリアは、あのころの世代の恋人ではなかっただろうか。(福原麟太郎「世代の恋人」)

この随筆には、正宗白鳥もオフィーリアに拘泥していたというエピソードもあり、明治のインテリ青年の間に『ハムレット』が浸透していた様子が伺えて楽しい。

現代の大学生は、シェイクスピアの戯曲なんか読むのだろうか(あるいは演劇で観ているのかもしれない)。

殺したからには地獄へ送りたい

イギリスへ向かう航海から引き返してきたとき、ハムレットは墓堀りと出会う。

そのとき、墓堀りが掘り出したのは、23年前に埋めたヨリックの頭蓋骨で、王様の道化だったヨリックに可愛がられたという記憶が、ハムレットにはある。

当時、ハムレットが5~6歳だったとすると、現在のハムレットは30歳前後ということになる(大学生という設定の割に、年齢は食っている)。

本作『ハムレット』は、父親を殺し、母親を寝取った、現国王クローディアスに対する復讐劇だが、主人公のハムレットは、なかなか復讐を実行しない。

この辺が、優柔不断な「ハムレット型」と呼ばれる由縁だが、ハムレットは決して勇気が持てなくて復讐を果たさなかったわけではない。

【ハムレット】生きてこうあるか、消えてなくなるか、それが問題だ。(略)眠ればきっと夢を見る──そう、厄介なのはそこだ。人生のしがらみを振り捨てても、死という眠りのなかでどんな夢を見るか分からない。だから二の足を踏まずにいられない──それを考えるから、辛い人生を長引かせてしまう。(ウィリアム・シェイクスピア「ハムレット」松岡和子・訳)

ハムレットは、決して殺人をためらっているわけではない。

一思いに殺せる場面で殺さなかったのは、死んだクローディアスが天国なんかへ行っては困るからだ。

殺したからには地獄へ送りたい。

死んだ後のことまで考えて、究極に残酷な復讐を、ハムレットは果たしたいと考えていたのである。

そして、自らも、死んだ後で地獄行きとなることは避けたい。

そこに、ハムレットの苦悩がある。

結局、最後は、クローディアスの謀略に巻き込まれて、難しいことを考える間もなく、ドタバタのうちに復讐を果たすのだが、こういう物語を読んでいると、昔の復讐劇というのは、復讐の中にも、いろいろと複雑な障害があったことが分かる。

レアティーズとの決闘を決意して、「生き残した人生のことなど誰に何が分かる。だったら、早めに死んでも同じことだ」と語るハムレットの台詞には、優柔不断な青年の面影もない。

本当に重要な復讐を果たすときには、考えなければならない重要な要素が、いくつもあるということなのだろう。

ちなみに、シェイクスピアの『ハムレット』には、原典となった『ウル・ハムレット』が別にあって、シェイクスピアは、これを焼き直しして、現在の『ハムレット』を仕上げたものらしい。

庄野さんが好きだった冒頭の幽霊の場面と、暗殺場面を再現した劇中劇の場面、そして、最後に全員が死んでしまうラストシーンは、現在の『ハムレット』オリジナルで、このあたりは、やはり、大きな見どころだなあと思う。

【ハムレット】さあ、近親相姦と殺人の罪を犯したデンマーク王、この毒を飲み干せ。貴様の真珠だ、いいな?(ウィリアム・シェイクスピア「ハムレット」松岡和子・訳)

自ら仕掛けた毒入りの盃を飲んでクローディアスは果てるが、死ぬ前の一言がどこにもない。

ハムレットとレアティーズとの決闘が始まった後の国王クローディアスに、もはや見せ場はなく、謀略家の最期は、あまりにも呆気ないものだった。

外国文学を読んでいると、いちいちシェイクスピアを引用しているものに出会うが、シェイクスピアの戯曲には、引用したくなる意味深なフレーズが多い。

しかも、それが人口に膾炙しているものだから、シェイクスピアを引用するだけで、回りくどい説明を避けて、多くの人が共有できるイメージを伝えることができる。

つまり、教養がないと、新たな教養を身に付けることができないわけで、そこに外国文学の奥深さがあるということなのだろう。

書名:ハムレット
著者:ウィリアム・シェイクスピア
訳者:松岡和子
発行:1996/01/24
出版社:ちくま文庫

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ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。