サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」読了。
本作「ライ麦畑でつかまえて」は、1951年(昭和26年)に刊行された長編小説である。
この年、著者は32歳だった。
サリンジャーの代表作であり、唯一の長編小説でもある。
社会からの疎外感の中で生きる
クリスマスということで、今年も『ライ麦畑でつかまえて』を読んだ。
何度目か分からないけれど、せいぜい一年に一度の再読なので、意外と覚えていない文章もあるし、読み返せば、その都度新しい発見もある。
今回、この小説を読み終えたときに感じたことは、狂っているのは、主人公の少年ホールデン・コーンフィールドなのか、それとも回りの世の中なのか?ということだ。
ストーリーそのものは、決して複雑ではない。
クリスマス休暇を前に、全寮制の高校を退学となったホールデンが、まっすぐ自宅に帰ることもできず、ニューヨークの冬の街をブラブラするという、簡単に言ってしまえば、ただそれだけのお話だ。
この長編小説の大部分を占めているのは、ホールデンが感じる様々な不満である。
寮生や教師や学校や社会、自分を取り巻くあらゆるものに対する不満が『ライ麦畑』の中では詳細に描写されていて、この物語は、まるで10代の少年が持つ不平や不満の百科事典のようなものだ。
「とにかく、なんで喧嘩したんだよ?」アクリーがまた言った。これで五十回目くらいかな? こういう点、こいつは全くうんざりなんだよ。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝・訳)
ホールデンの、こうした不満の根源にあるものが、社会からの疎外感である。
自分の理想と現実社会との微妙なズレに、繊細なホールデンは我慢することができない。
まるで、歯車が微妙にかみ合っていない時計みたいに、ホールデンは理想と現実との間で消耗していく。
社会から見たとき、ホールデンは狂った少年に過ぎないし、ホールデンから見ると、世の中すべてが間違っている、ということになる。
僕は、この小説を読みながら、村上春樹の小説の一節を思い出していた。
「しかしそれはまるでずれてしまったトレーシング・ペーパーのように、何もかもが少しずつ、しかしとり返しのつかぬくらいに昔とは違っていた」という、あの有名な一節だ。
ホールデンは、ずれてしまったトレーシング・ペーパーの上で生きているようなもどかしさを感じていたのではなかっただろうか。
娼婦のドレスに悲しみを感じるホールデンの繊細さ
ところで、この小説は、ホールデンが、欺瞞に満ちた社会への不満を口にすればするほど、未だ汚れていない純粋な存在が浮き彫りにされてくる、といった構成を持っている。
暗闇の中で、一点の光がまぶしく輝くように存在感を際立たせているのは、10歳の妹フィービーや、白血病で死んだ弟アリーといった、ホールデンの弟妹たちである。
この小説で、著者のサリンジャーは、99パーセントの闇を描くことによって、1パーセントの光にスポットを当てようとしていたのだろうか。
絶望的なまでに孤独を抱えたホールデンの未来を支えているのは、イノセントな存在の子どもたちだ。
『ライ麦畑』が絶望だけの物語に留まらず、薄ぼんやりとした希望を感じさせてくれる小説に仕上がっているのは、ホールデンにまだ救いが残されているからだろう。
繊細な高校生を主人公に据えたこの物語は、読者にもホールデン同様の繊細さが求められているような気がする。
ホールデンの傷みや焦りに共感できなくなったとき、もはや、この作品を読む価値はなくなってしまうのだ(想像しただけで怖いけど)。
それにしても、ホールデンの繊細さは、絶妙な場面で発揮されていてすごい。
そのドレスを掛けながら僕は、なんだか悲しくなっちまったんだ。彼女がどっかの店に入っていってそのドレスを買うとこを思い浮かべたんだよ。店の者は誰も、彼女が売春婦だとかなんとか知りはしない。そのドレスを買う彼女を店員は普通の女と思ったろう。そう思うと僕は、ひどく悲しくなっちまったんだ──なぜだかよくわかんないけどさ。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝・訳)
娼婦のドレスに悲しみを感じるホールデンの繊細さが、つまり、ホールデンの生きづらさでもある。
世の中の多くの人たちは、そんなに繊細ではないから、ホールデンの悲しみに共感することはない。
ホールデンと社会との微妙なズレは、そんな些細なことの積み重ねにあるのではないだろうか。
書名:ライ麦畑でつかまえて
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
発行:1984/5/20
出版社:白水Uブックス