写真と写真の間にエッセイがある。
写真はいずれもセピア色をしたモノクローム写真で、著者(内田ユキオ)愛用のライカで撮影されたものがほとんどらしい。
「僕が愛用しているライカは、もう五十年も前に作られたもの」で、「これこそが理想のカメラ」だと著者は言う。
自動化されている部分はひとつもなく、一枚の写真を撮るたびに、ピントや露出を自分で考えながらシャッターを切らなければいけないからこそ、「そこに何を見て、何を残したいと思い、何が大切だと感じているのか」を、自分の中で整理できる。
写真が好きだから、写真に対するこだわりは強い。
桜の花も夏のハワイも、モノクロで撮り続けているのは、著者が写真で獲ろうとしているものが「哀しみだとか、懐かしさだとか、驚きだとか、温もりだとか、恋に変わりそうなときめき」などといった目には見えないものだから。
「色によって見えにくくなっていたものや、感じてはいたのに見えていなかったものが、きっと写真に残るはずだ」と、著者は信じている。
現像を待つドキドキはなくなった気がするけれど
旅を終えて空港に向かうバスのなか、大学生くらいの3人組の女の子が、デジカメのモニターを見ながら騒いでいる。(略)やがて写真を見終えたのか、「デジカメっていいよね、すぐに見られて」と、ひとりの子が言う。「うんうん」とみんなで頷いてから、「でも現像を待つドキドキはなくなった気がするけれど」とほかの子が言う。「あれ好きだったのに。私だけかな?」君だけじゃないよ、と僕は思う。(内田ユキオ「いつもカメラが」)
フィルム写真を使い続けるのも、こだわりのひとつだ。
古いカメラで撮影された写真は、どれもとてもなめらかで、モノクロ写真なのにカラー写真以上にイメージを伝えてくれる。
そういえば、本書には全部で24篇のエッセイのほかに、番号のない3篇のエッセイが収録されている。
かつて、フィルムは24枚撮りが中心で、24枚を撮り終えた後にも、2~3枚分くらいのシャッターを切ることができる余裕があった。
時間も手間もかかるけれど、デジタル写真では得られない「何か」が、フィルム写真にはあると、信じている人たちは今も少なくない。
明日が今日と同じなら、写真を撮る意味などそれほどない
明日が今日と同じなら、写真を撮る意味などそれほどない。いつでも同じ場所に戻れるなら、カメラなどなくても構わない。でもいろいろなものが失われ、いろいろなものが変化していく。母も、通っていた中学校も、もう写真でしか姿を見ることはできない。だから僕はカメラを手に写真を撮る。(内田ユキオ「いつもカメラが」)
本書に収録された写真のほとんどは、さりげないスナップ写真で、そして、写真のどこかにいつも誰かの姿が写り込んでいる。
そんなに遠い昔のことではないけれど、それは間違いなく過ぎ去ってしまった過去の一瞬だ。
「くるっと後ろを振り返れば、いつでも戻れるはずだった。僕も思い出を失っていく歳になったのだ。若い人たちに「その昔、ここに何があったか知っている?」と、伝える方の立場になったのだ」という言葉の中には、写真に対する著者の強い決意が現れている。
「記録」とはちょっと違う、「記憶」に近い写真。
そんな写真を撮りたくなったら、モノクロ写真がいい。
フィルムカメラを使って撮った、モノクロ写真がいい。
書名:いつもカメラが
著者:内田ユキオ
発行:2006/6/30
出版社:枻出版社