俳句は戦争をどのように表現したのか。
愛国俳句の時代から戦後の戦争批判まで。
俳句は常に戦争を詠み続けてきたのだ。
書名:俳人が見た太平洋戦争
著者:
発行:2003/8/15
出版社:北溟社
作品紹介
「俳人が見た太平洋戦争」は、太平洋戦争と俳句との関わりを丁寧に考察する解説書です。
昭和18年に刊行された『大東亜戦争俳句集』を新資料として収録しているほか、俳句と太平洋戦争との関わりについて綴られた論評を収録しています。
(目次)誰かものいへー日本人は戦争をどう俳句で表現したか(大牧広)/戦争を詠んだ名句(成井恵子)/広島からヒロシマへー中国新聞に見る戦時下の俳句(吉原文音)/新資料 大東亜戦争俳句集(河野南畦・編)/俳句と原爆(河野南畦)/「天皇俳句」の詠法(谷山花猿)/まぼろしの「京大俳句」終刊号の周辺ー俳壇特高弾圧篇(杉本雷造)/私の戦争と平和(氷室樹)/あの日を追う(射場柏葉)/現代俳人が詠んだ「戦争」の俳句/私の戦争体験/太平洋戦争下の暮らしの年表(編集部・編)
基本的な視点は、戦争に反対する立場から綴られていますが、戦時中に多く見られた愛国俳句や、戦時中に刊行された『大東亜戦争俳句集』を復刻収録するなど、俳句の創作者たる俳人が、戦争とどのように関わってきたのか、客観的に検証しようとする姿勢が感じられます。
「戦争俳句」を俯瞰する上で、貴重な資料となってくれる一冊だと思います。
なれそめ
戦争に関する俳句に初めて興味を持ったのは、「原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ(金子兜太)」という句でした。
中学生の頃、学研の「中1コース」を定期購読していた僕は、文芸欄に俳句を投稿するようになり、夏になる頃には入選の常連に名前を連ねていました。
そのときの選者が金子兜太という俳人であったことから、僕は金子兜太さんの俳句作品を読むようになりました。
金子兜太さんは「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」という有名句でも知られているとおり、戦後、戦争と向き合う俳句を数多く遺した俳人です。
「原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ」の句は、当時の僕が持っていた俳句の概念を大きく超える作品でしたが、俳句が社会に寄り添う文芸であることを、初めて教えてくれた作品ともなりました。
あらすじ
戦時中にまとめられた『大東亜戦争俳句集』に見られる愛国俳句の時代から、戦後は一変して戦争批判へと向かった俳句界。
ただ俳句は季語「終戦記念日」や「原爆忌」など戦争につながる言葉を定着させてきた戦後の歩みがある。
それは日本人全体の、大衆の強烈な感慨の反映でもある。
それほど戦争は、戦後の大衆の中で深い傷あととなって今も生き続けている。
戦争がもたらした日本人の心の傷は深い。
戦後の経済成長は、心のゆとりを生み、多くの人が俳句を作るようになったわけだが、戦後俳句は、ただ単に美しいものや自然の移ろいを表現するのではなく、病いや死に対する苦悩を表現することで、自分史の域を超えて普遍的な感動を呼びおこす詩型として定着をみた。
そんなエポックとなった俳句と戦争の激しくぶつかり合った時代と、その後の展開を検証する貴重な一書である。
(帯の紹介文より)
本の壺
心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、本の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。
蟇誰かものいへ声かぎり
戦争を十七文字に表現するのは、むしろ容易である。その絶対悪を声高に叫べばよいのである。でもその声高は、戦中のあのヒステリックな大本営発表の声高と同じになる。(『誰かものいへー日本人は戦争をどう俳句で表現したか』大牧広)
開戦から戦後まで、戦争に関わる俳句を俯瞰しているのが、大牧広さんの『誰かものいへー日本人は戦争をどう俳句で表現したか』です。
表題の「蟇誰かものいへ声かぎり」は加藤楸邨の有名句。
加藤楸邨には「十二月八日の霜の屋根幾万」という開戦記念日を詠んだ句もあります。
戦時中には「柊の花や空襲警報下(久保田万太郎)」といった庶民の句。
終戦を詠んだ句では、安住敦の「てんと虫一兵われの死なざりし」が有名。
戦争批判が高まった戦後は「原爆図口あくわれも口あく寒(加藤楸邨)」などのように、戦争の悲惨さを詠うものが多くなりました。
戦争が廊下の奥に立つてゐた
機密の漏洩を恐れて、会議室の周辺に、警戒・監視の任にあたる人間を立たせ、廊下を通行止めにしていた。立入り禁止となった廊下の奥から、扉を固く閉ざしている会議室、そこには異様も重々しい空気が存在していた。(『戦争を詠んだ名句』成井恵子)
表題の「戦争が廊下の奥に立つてゐた」は渡辺白泉の有名句です。
日常生活の中に潜む様々な制限、それは立入禁止となった廊下にさえ、戦争がすぐ身近にあるということを如実に物語っていました。
この句は季語が含まれていない、いわゆる無季俳句ですが、著者は「戦争は、季語ではないが、それと同等に重みを有する語であり、無季俳句の造型には、有益な現象・素材であると積極的に取り組んだ結果も見られる」と指摘しています。
渡辺白泉は「銃後といふ不思議な町を丘で見た」「憲兵の前で滑つて転んぢゃった」など、無季ゆえに戦争と冷静に向き合う作品を多く遺しました。
広島や卵食ふ時口ひらく
原爆の降下された広島、一年前には、自分が腰かけている石は火になり、大量の人が死に、生き残った者は、この石を前にぞろりぞろり、腕から皮膚をたれさげて、火傷の身を引きずっていったのだ。今、そこで自分は、生きて茹で卵を食っている。皮を剥がした卵の感覚が、原爆にさらされた人間の群れにつながる。(『戦争を詠んだ名句』成井恵子)
表題の「広島や卵食ふ時口開く」は、西東三鬼の有名句です。
俳句雑誌『俳句人』昭和22年5月号に掲載された『有名なる街』八句のひとつで、雑誌掲載時は「物を食ふ時」でしたが、『三鬼百句』(昭和23年9月)で「卵食ふ時」に改められました。
「広島」を冒頭に並べた、この『有名なる街』は、俳句の世界のみならず、社会的にも大きな話題となった作品です。
直接的な戦争批判・原爆批判を超えて、人間の根底に迫るエネルギーが、たった十七文字の中から放出されていて、単に戦争俳句という枠に留まらない、俳句が持つ無限の可能性を示した作品と言えるのではないでしょうか。
本書では、このほか太平洋戦争に関わる俳句作品が多数収録されています。
俳句を切り口に学ぶ太平洋戦争、皆さんもいかがですか。
読書感想こらむ
あとがきの中に、こんな俳句を見つけました。
戦友(とも)を焼く鉄板かつぐ夏の浜
これは、かつて内閣総理大臣を務めた中曽根康弘さんの句集に収録されている作品です。
中曽根元首相は、実際に戦地で激しい戦闘を体験した旧日本軍兵士の一人であり、そのときの体験が「戦友(とも)を焼く鉄板かつぐ夏の浜」の句として遺されました。
戦争俳句を詠むとき、実際に戦地で詠まれた俳句の中から名句を探すことは、なかなか難しい作業なのだと、本書を読みながら感じました。
戦地での戦闘と俳句の芸術性とは、おそらく両立しえない対極の表現方法だからだと、僕は思います。
敵に殺されるか、敵を殺して生き残るかの極限状態の中で、俳句を詠むということは、おおよそ現実的ではないように思えるし、そもそも戦闘中にそんな余裕なんかあるはずもありませんから。
戦後の反戦俳句に比べて愛国俳句に名句が少ないことには、それなりの理由がちゃんとあるのだと思います。
戦争俳句なんかなくなる時代がくればいい。
本書を読む多くの読者の本音は、そんなところにあるのかもしれませんね。
まとめ
俳句はいつでも戦争と向き合ってきたという歴史の記録。
膨大な俳句作品の一句一句が、その歴史の証人である。
たとえ記憶が風化しようとも、俳句は永遠に遺されていくだろう。