庄野潤三の世界

庄野潤三「書評・フラニーとゾーイー」娘の父親が読み解く家族の物語

庄野潤三「書評・フラニーとゾーイー」あらすじと感想と考察

庄野潤三「母と二人の若者」読了。

本作「母と二人の若者」は、1968年(昭和43年)10月『群像』に発表された、『フラニーとゾーイー』(サリンジャー、野崎孝・訳)についての書評である。

この年、著者は47歳だった。

なお、作品集には、随筆集を含めて収録されていない。

庄野家の長女とフラニー

庄野潤三とサリンジャーとは、家族をモチーフとした小説を書いている、という共通点がある。

もっとも、同じく家族を描きながら、その方向性はまったく異なっている。

サリンジャーは、家族の不幸せな部分に着目し、庄野さんは、家族の幸福な部分に着目した。

ベクトルがまったく異なる作家である庄野さんが、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』をどのように受け止めたのか。

両作家の読者として、これは非常に興味のあるテーマだったけれど、答えはあまりにも簡単だった。

異常な子どもたちで構成されたグラース家の物語を、庄野さんは受け入れることができなかったのだ(おそらく)。

https://syosaism.com/franny/

書評は「はじめに「フラニー」という章がある」という一文から始まる。

フラニーというのは、二十になる娘で、大学で演劇部に入っている。(略)このフラニーが、東部のどこかの大学町へ週末のフットボールの試合をみに汽車でやって来たところから始まる。大勢娘さんが降りるが、その中にフラニーがいる。レーンという学生が駅へ迎えに来ている。フラニーの泊る宿屋は、もうちゃんと取ってある。(庄野潤三「母と二人の若者」)

ちなみに、庄野さんにも、しばしば作中に登場する長女がいる。

庄野さんの長女は、この年の一月に成人式を迎え、四月には短大を卒業して民間企業に就職している。

フラニーと、まさしく同じ年頃の女の子が、庄野家にもいたのである。

フラニーは、いま、この本に深く心を惹かれている。自分も、そのお百姓さんのように絶えず祈りたいという気持になりかかっている。いくらか、思い詰めているように見える。(庄野潤三「母と二人の若者」)

庄野さんの書評は、淡々と物語の筋を紹介していくもので、批評や感想といったものが入る隙間もない。

家族にこだわり続けた作家たち

次に、書評は「ゾーイー」の章へと移る。

ここでも、読者としての評価はなく、物語の梗概が延々と続く。

グラース家には、七人の子供がいた。男五人と女二人で、ラジオの「これは神童」という番組に、十六年もの長い年月にわたって、順繰りに出演した(いちばん上の男の子のシーモアと末っ子のフラニーの間には、十八歳のひらきがある)。このうち、長兄のシーモアと三番目のウォルトは、この物語の進行している一九五五年秋には、もうこの世にいない。シーモアは自殺し、ウォルトは爆発事故で死んだ。(庄野潤三「母と二人の若者」)

「シーモアがいてくれたら」という台詞をとらえて、庄野さんは「このシーモアは、サリンジャーの短篇小説バナナフィッシュのことを思い出させる」とした後で、「私は、こんなにみんなから思われている長兄のシーモアが、この家の中で生きていた頃のことを知りたい気持がする」と綴っている。

それに対してゾーイーは、ひとつひとつ反駁を加えてゆく。しまいにはフラニーは泣き出してしまうのだが、このあたりからおしまいへかけては、息もつがせぬといった風で、迫力がある。はじめはあんまり好きじゃないと思っていたゾーイーが、なかなかどうしていいところをみせるのである。(庄野潤三「母と二人の若者」)

最後に、庄野さんは、お母さんがつくった一杯のチキンスープを飲まないうちは、巡礼に出たって何になるかというゾーイーの台詞を引用して、「この言葉には確かに説得力がある。私はゾーイーの意見に賛成であった」という文章で、この書評を締めくくっている。

「私はゾーイーの意見に賛成であった」という部分だけが、読者としての庄野さんの感想で、あとは、ひたすらにあらすじが紹介されている。

庄野さんの文章で筋書きだけを取り出して読むと、この物語は、我々の知っている『フラニーとゾーイー』とは、全然違う物語のような気がしてくるから不思議だ。

https://syosaism.com/zooey/

そもそも、庄野さんの小説には、子どもたちがこじらせたりする場面は出てこない。

家族は、あくまでも仲良しで健康的である(せいぜい、梨を食べすぎるくらい)。

もしも、あるとすれば、初期の作品で、庄野さんは、夫婦関係の危機を執拗に書き続けた。

そこでは、こじらせた妻が自殺未遂をしたりして、なかなか陰影に富んでいるのだが、五人家族を描くようになってから、庄野さんの小説は、明るく健康的になった。

考えてみると、サリンジャーがグラース一家の物語(グラース・サーガ)を描き続けたように、庄野さんも、庄野一家の物語を描き続けた。

代表作『夕べの雲』から晩年の夫婦シリーズに至るまで、庄野潤三の作品は、壮大なサーガとして位置付けることができる。

家族にこだわり続けた作家という点において、サリンジャーと庄野さんは、やはり似ているところがあるのだろうか。

書評として、本作が作品集に収録されなかった理由は、何となく理解できるような気がする。

作品名:書評『フラニーとゾーイー』母と二人の若者
著者:庄野潤三
書名:群像
発表:1968/10
出版社:講談社

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ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。