池波正太郎さんの「よい匂いのする一夜」を読みました。
ノスタルジーたっぷりな、宿エッセイです。
書名:よい匂いのする一夜
著者:池波正太郎
発行:1986/6/15
出版社:講談社文庫
作品紹介
「よい匂いのする一夜」は、池波正太郎さんのエッセイ集です。
池波さんの「まえがき」によると、「この一巻は、昭和54年から2年間にわたり、雑誌『太陽』へ連載した」ものであり、「この随想は、諸方の旅館やホテルを探訪したものではない。いずれも、私の過去の生活に結びついている土地や宿を、あらためて振り返ってみたのである」とあります。
池波さんは「いま、時代のながれは、かつてないほどのスピードをもって、大きく変わりつつある」中、「この数年間における日本の変貌」によって「この本の中の旅館やホテルが、数年前と同じだとはかぎらない」と指摘しています。
そして、「この一巻を、旅行の案内書のようにお読みにならず、私の随筆集として、お読みいただければ幸いである」と、池波さんは綴っています。
雑誌「太陽」連載は、昭和54年7月号から昭和56年5月号まで、単行本は昭和56年4月に平凡社より刊行されています。
なお、池波さん自身のペンによるカット20枚が挿入されていることも、本書の特徴です。
よい伝統を引き継いで、奇跡のように残り続ける素晴らしい宿。激しい世相の変転の中で、変らないもてなしの心はどのようにして守られたのか。「旅」好きの著者が、日本各地とヨーロッパに、ゆかりの宿を再訪して、誇り高く、折り目正しい人々と出合う喜びの旅。よいものは何故よいのかを、明晰に語る随筆集。(カバー紹介文)
あらすじ
「よい匂いのする一夜」は、旅館やホテルなどの「宿」を中核とした旅に関する随筆集です。
また、「ホテルや旅館のメニューを、できるだけ書きとめたのは、当時のそれをメモしておくことにより、時代相の反映をうかがうことができるからだった」とあるように、それぞれの宿の食事内容も細かく記されています。
目次///まえがき///大仁温泉・大仁ホテル/長野市・五明館/日光市・日光金谷ホテル/京都市・俵屋/丹後峰山・和久伝/飛騨古川・蕪水亭/軽井沢・万平ホテル/厳島・岩惣/フランスとスペインの宿/湯布院・玉の湯/倉敷市・倉敷アイビースクエア/寄居・京亭/蒲都市・蒲都ホテルと常磐館/山中温泉・よしのや依緑園/箱根・富士屋ホテル/伊東市・龍石/フランスの宿/沼津市・スカンジナビア/芦原温泉・開花亭/湯河原温泉・楽山荘///解説(筒井ガンコ堂)
なれそめ
僕は時代小説を読まないのですが、池波正太郎さんの著作はたくさん持っています。
池波さんは、時代小説ばかりでなく、随筆集も数多く出版されているからで、僕は池波さんの随筆集の良き読者と言えるでしょう。
池波さんの随筆のテーマには、食や映画に関するものが多いようですが、「よい匂いのする一夜」は旅行記というか、池波さんの記憶の中に残る素晴らしい宿について綴られています。
池波さんの宿泊で最もこだわりがあるのが「寝具」です。
「食べ切れぬ食事の皿数を一つでも二つでも減らしてよいから、私は洗いたてのカバーとシーツの芳ばしい匂いに包まれて眠りたい」とあるくらい、寝具にはこだわりがあります。
だから、本書のタイトルも「よい匂いのする一夜」で、いかに気持ちの良い眠りにつくことができるかどうか、それが池波さんの旅の成功のポイントと言えるようです。
本の壺
心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、本の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。
私たちのホテルは、秋の草花が香るレ・ゼジー駅の近くにあった
私たちのホテルは、駅員の姿もなく、秋の草花が香るレ・ゼジー駅の近くにあったが、一日にニ本ほどしか列車が通らない。まるで個人の邸宅のように落ちついた小さなホテルで、衣装戸棚の戸の裏に針と糸とハサミがセットされている。(「フランスとスペインの宿」)
僕のいちばん好きなエッセイが「フランスとスペインの旅」で、殊にフランスの田舎を旅する話は旅情を強くしてくれます。
十六、七の実に可愛らしい少女の女中さんがベッド・メイキングで部屋を訪れた時に、言葉が通じないので日本語で「なんだい?」と言ったら、「少女が両手を目を閉じる仕ぐさをするではないか」などという何気ないスケッチは、旅の記憶として上等のもの。
「フランスの田舎へ来ると、パンもうまいが、卵や野菜、鶏などが、いまの日本、ことに東京では、もはや味わうことができなくなった旨さで、夕飯のときの野菜のサラダを、おかわりしたほどだ」なんていう文章も良いですね。
北陸の湯の町の、女たちの親切は、行ってみた者でなければわかるまい
北陸の湯の町の、女たちの親切は、行ってみた者でなければわかるまい。ガラス戸ごしに、朝の湯豆腐で酒をのみながら、中年の女中さんたちの身の上ばなしを聞いていると、また、ちらちらと雪になる。(「芦原温泉・開花亭」)
京都をこよなく愛した池波さんは、京都周辺の温泉にも足を延ばすことが多かったようで、「芦原では小さな宿をえらんで泊った」と回想しています。
大正元年創業の「開花亭」に宿泊したのは、このときが初めてで、「夕飯が出るころには、いくらか雪も小降りになったようだが、ここ数日来の雪だけに、かなり積もっている」と、北陸の雪を楽しんでいます。
翌朝も「目ざめると、まだ雪が降っている」中で、「炬燵の上にととのえられた膳に向い、桶の湯豆腐で酒をのんだ」「温泉玉子やモズク。焙った笹鰈。いずれも朝の酒にはよい」とあるのが、すごく良いなあと思いました。
まあ、この後、大雪で列車が止まって、大変なことになるわけなんですが、、、
庭の蹲踞に掛けた竹の上に、白い芍薬が一輪、さりげなく置かれている
祇園で酒を飲み、十一時ごろ俵屋へ帰り、新館の自分の部屋へ入ると、独特の工夫をこらした寝具が敷きのべられてい、ぬぎ捨てておいた浴衣が新しいものに替えられてあった。(「京都市・俵屋」)
池波さんは、とにかく京都が大好きでした。
東京で失われた江戸情緒を京都に求めていたわけで、「京都に[江戸を偲ぶ…]のである」と、池波さんも綴っています。
「俵屋」は、「創業が宝永年間という京の旅館」で「京都の高級旅館として三百年の歴史をもっている」と紹介されています。
「アメリカの映画俳優マーロン・ブランドは俵屋へ泊って、一夜の予定が二夜三夜となり、「もう少し、もう少し…」というので、ついに十日間も滞在してしまったそうな」というエピソードが面白いと思いました。
「庭の蹲踞(つくばい)に掛けた竹の上に、白い芍薬が一輪、さりげなく置かれている。あるじも女中さんたちも、自分の仕事に欲得をはなれて打ち込んでいる。それが、蹲踞の花片一つを見てもわかるのだった」という文章からは、池波さんの宿に対する鋭い観察眼が感じられます。
旅好きの作家であるからこその細かい描写こそが、この随筆集の醍醐味なのかもしれませんね。
読書感想こらむ
「よい匂いのする一夜」は、失われていく日本の宿文化に対するノスタルジーで綴られています。
あるいは、それは、失われた日本文化に対する追悼とさえ言えるかもしれません。
高度経済成長という名のもとに、次々と姿を消していった「日本の古き良き時代」を、池波さんは旅館やホテルというテーマを通して描きたかったのでしょう。
本書を読むと、日本にもたくさんの素敵な宿があったことが分かります。
それは、1980年前後の日本において、既に「旅の記憶」であり、「旅の思い出」となってしまったノスタルジーです。
あれからさらに40年の時が経ちました。
この一冊の随筆集が遺されたことで、僕たちは今も、あの頃の旅の風景を楽しむことができるのです。
まとめ
「よい匂いのする一夜」は、「宿」をテーマにした随筆集です。
古き良き時代の日本の旅が、そこにはあります。
旅好きな方におすすめ。
著者紹介
池波正太郎(時代小説作家)
1923年(大正12年)、東京生まれ。
『錯乱』で第43回直木賞を受賞。
『よい匂いのする一夜』刊行時は58歳だった。