日本文学の世界

志賀直哉「城の崎にて」人間は、いつ、どこで死ぬか分からない

志賀直哉「城の崎にて」読了。

本作「城の崎にて」は、1917年(大正6年)5月『白樺』に発表された短篇小説である。

この年、著者は34歳だった。

作品集としては、1918年(大正7年)1月に新潮社から刊行された『夜の光』に収録されている。

小動物の死を通し、死生観と向き合う気持ちを綴った心境小説

城崎(きのさき)温泉は、兵庫県豊岡市にある温泉街で、山陰地方有数の温泉地として知られている(豊岡市は、鞄の名産地としても有名(豊岡鞄))。

交通事故で怪我をした志賀直哉が、養生のために城崎温泉を訪れたのは、1913年(大正2年)10月のことだった。

直哉の八月十五日の日記に「晩、散歩に出る、芝浦の埋立地へ行く。水泳を見、素人相撲を見物して、帰り山の手線の電車に、後ろから衝突され、頭をきり背を打った。伊吾が、どうかかうか東京病院へ連れていってくれた」とある。伊吾は里見弴である。(伊沢元美「志賀直哉と山陰」)

10月18日から11月6日まで、志賀直哉は、三週間近く<三木屋>に宿泊するが、このときの体験を元に書かれた小説が、本作「城の崎にて」である。

城崎で「蜂、鼠、蠑螈(いもり)の死を目撃して受けた感じを人間の生と死にからませて、自己の心境を吐露した」作品が「城の崎にて」であると、伊沢元美は綴っている。

物語というよりは、小動物の死を通して、死生観と向き合う気持ちを文章に綴った、いわゆる心境小説で、特別の筋書きはない。

自分の気持ちを、透明感のある美しい文章で綴っていくだけだ(この文章を、谷崎潤一郎が絶賛した)。

(「城の崎にて」は)事実ありのままの小説である。鼠の死、蜂の死、皆その時数日間に実際目撃した事だった。そしてそれから受けた感じは素直に且つ正直に書けたつもりである。所謂心境小説というものでも余裕から生れた心境ではなかった。(志賀直哉「創作余談」)

私小説作家・志賀直哉が、自身の気持ちを忠実に再現した心境小説、それが、本作「城の崎にて」という短篇小説だった。

「死」は「生」の対極にあるのではない

本作「城の崎にて」のテーマは、人間の生と死である。

交通事故で、生と死の境目をさまよった<自分>(著者)は、人間にとっての死が、決して遠いものではないことを理解する。

自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸が傍にある。それももうお互いに何の交渉もなく、──こんな事が思い浮ぶ。(志賀直哉「城の崎にて」)

「それは淋しいが、それ程に自分を恐怖させない考だった」「自分の心には、何かしら死に対する親しみが起っていた」とあるのは、死と向き合って感じた、著者の新しい発見だろう。

養生先の温泉地<城の崎>で、小動物たちの死に居合わせながら、著者は、この「死に対する親しみ」を深めていくことになる。

そこから得られる結論は「人間、いつ、どこで死ぬか、分からないよね」という、一種の悟りだ。

生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。もうかなり暗かった。視覚は遠い灯を感ずるだけだった。(志賀直哉「城の崎にて」)

「死」は「生」の対極にあるのではない──。

そこに、この心境小説の、一つの教訓がある。

交通事故で重傷を負って、旅先の温泉地で小動物の死に立ち合って、著者は「死」が決して特別の存在ではないという事実を発見する。

それは、志賀直哉という作家にとって、新しい出発のようなものであったのかもしれない。

作品名:城の崎にて
著者:志賀直哉
書名:小僧の神様・城の崎にて
発行:2005/04/15 改版
出版社:新潮文庫

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