日本文学の世界

安岡章太郎「人生の隣」ちょっと息抜きに文学的価値の高いエッセイ集

安岡章太郎「人生の隣」ちょっと息抜きに文学的価値の高いエッセイ集

安岡章太郎さんのエッセイ集「人生の隣」を読みました。

一つ一つの文章に深みが感じられる随筆集です。

書名:人生の隣
著者:安岡章太郎
発行:1986/9/10
出版社:福武文庫

作品紹介

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「人生の隣」は、安岡章太郎さんのエッセイ集です。

大久保房男さんの解説によると、「表題の『人生の隣』とは、散文芸術のことである」「大正13年に、広津和郎氏が『散文芸術の位置』という文章を書いているが、その中で、「沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は、直ぐ人生の隣りにいるものである。右隣りには、詩、美術、音楽というように、いろいろの芸術が並んでいるが、左隣りは直ぐ人生である」とその位置を説明している」そうです。

戦後もいろいろと論じられながら「散文芸術は人生のすぐ隣に位置しているという考え方が文壇に定着した」ということです。

なお、単行本は、1975年(昭和50年)8月、講談社から刊行されています。

志賀直哉、梶井基次郎、井伏鱒二ほか14人の作家、森鴎外「阿部一族」、北原武夫「文学論集」、武田泰淳「富士」など18の作品を論じ、人生と隣あった文学の秘密を、作家のイメージによって解き明かす珠玉のエッセイ集。

あらすじ

エッセイ集『人生の隣』は、「作家」「作品」「随想」「紀行」の4つの大きな章で構成されています。

目次///「Ⅰ作家」仕事と名声(志賀直哉)/志賀直哉宛書簡について/イメージを生む力(志賀直哉)/模倣について(梶井基次郎)/不吉な予感(川端康成)/北原さんのこと(北原武夫)/弔辞(北原武夫)/雨傘をさした散歩(石坂洋次郎)/朝焼け夜空(井伏鱒二)/静かに鉱物を育てる水(中村光夫)/犬と中里さん(中里恒子)/幽霊の国籍(遠藤周作)/吉村淳之介氏と念力について/欲望について(開高健)/追放ということ(ソルジェニーツィン)/笑いと涙(十辺舎一九)/おのが身の闇(与謝蕪村)///「Ⅱ作品」見えざる主人公(森鴎外「鈴木藤吉郎」)/歴史小説について(森鴎外「阿部一族」)/雄大なパノラマの内的幻影(岩野泡抱「長篇五部作」)/耳朶を打つ言葉(北原武夫「文学論集」)/大の男の慟哭(武田泰淳「富士」)/追放されたジョナサン(リチャード・バック「かもめのジョナサン」)/二冊の本(黄霊芝)/陶治された言語(瀧井孝作「俳人仲間」)/花より団子の臨場感(永井龍男「秋」)/女の欲、男の欲(宇野千代「雨の音」)/”此岸”の言葉(日野啓三「此岸の家」)/生々流転(近藤啓太郎「大観伝」)/おとし穴の効用(坂上弘「藁のおとし穴」)/はかりしれざる智慧と結びついた愚かさ(阿川弘之「暗い波濤」)/Gently down the stream(岡田睦「ワニの泪」)/自由とハンスト(李恢成「追放と自由」)/おかしみに就いて(井伏鱒二「小黒坂の猪」)/生真面目な人(北原武夫「文学全集」)///「Ⅲ随想」『ガラスの靴』の頃/五月の薫風/瓦礫のことば/地方人と都会人の文章/作文の功罪/語学の習練/小説の未来///「Ⅳ紀行」隅田川/南禅寺付近/北米紀行/軽気球に乗った街/ナッシュビル///解説(大久保房男)

なれそめ

最近、「第三の新人」と呼ばれる一群の人たちの本をよく読みます。

安岡章太郎さんもその一人で、明治、大正、昭和初期(戦前・戦中)と時代を降りてくると、「第三の新人」のあたりで、突然文学がオシャレな感じになってくるような気がします。

日本文学の世界で、戦前と戦後との境目って、もしかすると「第三の新人」の頃なのかもしれない。

古本屋で見つけた「人生の隣」の表紙を繰ると、「1986.10.4 紀伊国屋」という走り書きの下に「高聖蔵書」の朱い蔵書印がありました(250円)。

本の壺

心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、本の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。

「友人と呼ぶべき人間は一人もいない」石坂洋次郎の散歩

おもうに石坂さんが文学によせた情熱は、このような貧しさからせめて自分の精神だけでも脱出させたいという心持から起ったのではなかろうか。代表作「若い人」などにみられるハイカラな雰囲気は、そのことを裏書きしているように思われる。しかし、その都会的な要素が自分の見につかないことを石坂さんは、誰よりのもよく自覚していた。(「雨傘をさした散歩(石坂洋次郎)」)

安岡章太郎さんの「家は石坂洋次郎氏のお宅より歩いて25分くらいの距離」で、「この20年ばかりの間に私は、何度か散歩中の石坂さんに出くわした」そうです。

そんなとき、石坂さんは「おお、ヤシオカ君、元気か」と、まったく何の屈託もない顔つきで挨拶をされたのだとか。

しかし、かつて「私は人と交われない陰性な人間」「だから友人と呼ぶべき人間は、過去にも現在にも一人もいない」と書いた石坂さんの姿は、「なぜか或るさびしさを漂わせる」と、安岡さんは綴っています。

幽霊に遭遇した遠藤周作と「なむあみだぶつ」

ふと気がつくと遠藤が口の中でぶつくさ言っている。「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだ、、、」「おい、どうしたんだ、、、おまえ、カトリック信者じゃなかったのか。ヤソならヤソらしく、アーメンとか何とか言ったらいいじゃないか」私は最初、遠藤がふざけているのかと思った。しかし、遠藤は真剣に中空に眼をすえて唱えつづけているのである。(「幽霊の国籍(遠藤周作)」)

安岡章太郎と遠藤周作の二人が幽霊らしきものに遭遇したとき、動転した遠藤周作は「なむあみだぶつ」と唱えたそうです。

三浦朱門が遠藤周作と旅行中にお化けに遭遇したときも、遠藤さんは「なんまいだ」と唱え、三浦さんがキリスト教で祈らないのかと突っ込むと、「馬鹿! こんなところで、そんなことを祈ったって、きくものか」と一喝したんだとか。

いくら遠藤さんが敬虔なキリスチャンでも、日本の幽霊には、やっぱり日本の仏教が一番だと考えたんでしょうね。

私はできるだけ小さく切りつめた作品を書くことにつとめた

「ガラスの靴」を書いたのは、昭和25年、私が満で30歳のとしである。いま考えると滑稽だが、その頃私はもう長くは生きられないように思っていた。もっとも、これは私には限らない。一般に戦時下に青年であった者は、ほとんど30歳まで生きられるとは思っていなかったはずである。つまり、私たちにとって、未来というものは無いも同然だったのだ。(「『ガラスの靴』の頃」)

このエッセイは、安岡さんがデビュー作『ガラスの靴』を執筆するに至った経緯を綴ったものです。

「私は自分の中の空虚なものを埋めるために書く」「しかし、書かれたもの自体は空虚であってはならないのだ」「私はできるだけ小さく切りつめた作品を書くことにつとめた」「作品の価値は長さによって決まるものではない」。

どんな短い行間にも自分の知り得たこと、発見したことを書き、それが真実を射抜いたものであれば、その文章は生きてくるはずで、それによって初めて自分の中の空虚なものが、少しずつでも埋められていくというわけだ」

「そんな風にして20枚ばかりの短篇が一つ出来上った」「それは小説といっても随筆に近い、小さなものであったが、これまでのものと違って小さいなりに手応えはあり、私にとっては記念すべきものになった」「私は二作目も、小説とも随筆ともつかぬスケッチ風のものを書いた」

そんなことをしているうちに「架空の恋愛小説のようなもの」が浮かんだという安岡さんは、「それを書くためにノート」を取り始めます。

そして、30歳の誕生日の日に、「まるで架空な恋人におくるラヴ・レターのようなもの」を「なんとか短篇小説らしい恰好」をつけて完成させたこの作品は、北原武夫さんによって『ガラスの靴』と名付けられて「三田文学」に発表されます

ちなみに、最初に安岡さんが付けたタイトルは「ひぐらし」だったそうです。

読書感想こらむ

ちゃんとした文学者が書いた随筆は、やっぱりおもしろい。

そういうことだと思います。

一つ一つの文章に思想があって、それぞれのエッセイに哲学がある。

安岡さんのエッセイは、そういうエッセイです。

現代の日本人も、こういうエッセイを、もっと読むべきなんでしょうね。

まとめ

安岡章太郎さんの「人生の隣」は、文学的価値の高いエッセイ集です。

全然難しくないのに深みがあって、得られるものが多いってすごい。

著者紹介

安岡章太郎(小説家)

1920年(大正9年)、高知生まれ。

1953年(昭和28年)、「陰気な悲しみ」「悪い仲間」で芥川賞受賞。

「人生の隣」刊行時は55歳だった。

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ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。