読書感想文

安岡章太郎「かんがえる、かんがえる—庄野潤三著『エイヴォン記』を読む」

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安岡章太郎の随筆集『歳々年々』の中に「かんがえる、かんがえる—庄野潤三著『エイヴォン記』を読む」という随筆が載っていた。

随筆というか、まあ、書評とか読書感想の類なんだけれど、二人の友情みたいなものが、文脈の中から伝わってきて心地良いエッセイだった。

そのとき生れた男の子が、『エイヴォン記』の縦糸になっている孫娘「フーちゃん」の父親なのである

あの頃、私たちはよく仲間の家を家族ともども往き来していた。私のところに長女の生れたときにも、庄野はすぐに夫妻でお祝いにきてくれた。庄野夫人は、自身も臨月の身重であったが、「あしたは庄野の誕生日だから、あたしも頑張って、ぜひあしたのうちに生むつもりよ」と言い、胎児に刺戟をあたえるために駅の階段などもわざと荒っぽく上り下りしているということを、笑いながらつけ加えた。そして驚いたことに翌朝、実際に夫人は男の子を生んだ—。(略)そのとき生れた男の子が、こんどの長編随筆『エイヴォン記』の縦糸になっている孫娘「フーちゃん」の父親なのである。(安岡章太郎「かんがえる、かんがえる—庄野潤三著『エイヴォン記』を読む」)

庄野さんの『エイヴォン記』は、庄野さんの次男の長女(つまり孫娘)であるフーちゃんが登場する、最初の長編作品である。

フーちゃんシリーズは、その後『鉛筆印のトレーナー』『さくらんぼジャム』の3部作へと繋がっていくが、安岡さんも書いているとおり、『エイヴォン記(1989年)』のときにはまだ「長編随筆」と称されていた。

『エイヴォン記』では、フーちゃんのほか、近所の清水さんがくれる薔薇の花を縦糸に、庄野さんの若かりし日の読書体験が横糸として描かれていて、フーちゃん、清水さんのバラ、読書体験という3つのテーマによる随筆だったと言うことができる。

『鉛筆印のトレーナー(1992年)』『さくらんぼジャム(1994年)』では、フーちゃんに焦点を当てながらも、庄野夫妻の日常生活が俯瞰的に描かれていて、これは『貝がらと海の音(1996年)』から始まる「夫婦の晩年シリーズ」にも繋がっていくことになる。

旧友・安岡さんにとっての『エイヴォン記』は、フーちゃんのお父さんである次男が生まれたときの記憶から始まるところがいい。

一本の切り花を見詰めている庄野の顔を想い浮べると、いかにもおたがいに年とったな、という気がしてくるのである

全体は、近所で薔薇をつくっている清水さんが、また一年後に他の花束とは別に、蕾のふくらんだエイヴォンを一本、渡してくれることでしめくくられている。エイヴォンがどんな花か、私は知らない。しかし、一本の切り花を見詰めている庄野の顔を想い浮べると、いかにもおたがいに年とったな、という気がしてくるのである。(安岡章太郎「かんがえる、かんがえる—庄野潤三著『エイヴォン記』を読む」)

『エイヴォン記』は、庄野さんの読書体験の思い出と、フーちゃんや清水さんの近況が、交互に繰り返される。

その場面の切り替わり方が、あまりにも唐突なので、最初のうちは話の展開に付いて行くのに苦労する。

また、各章で採り上げられている文学作品は、どれもみな一見して脈絡のないものだが、こうした作品群について、安岡さんは「主題も趣向もマチマチで、時代も舞台も種々様々でありながら、全体に大きな調和とまとまりがあるのは、十二編の物語の底に一貫して共通の主調音がながれているためであろう」「その主調音とは何か、ひと言でいえば生命への信仰というようなものだ」と指摘している。

そして、一篇一篇の物語とフーちゃんや清水さんのエピソードとに、目に見えない共通項を見つけて、ひとつの随筆作品としてのまとまりを生み出していると、安岡さんは考えていたようだ。

「一本の切り花を見詰めている庄野の顔を想い浮べると、いかにもおたがいに年とったな、という気がしてくるのである」という最後の一文には、重病から復活した旧友に対する温かい愛情が満ち溢れている。

だからこそ、僕はこの随筆を、書評というよりも、仲間に対する個人的な激励の手紙のようなものだと思ったのかもしれない。

書名:歳々年々
著者:安岡章太郎
発行:1989/12/15
出版社:講談社

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じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書ブログを立ち上げました。村上春樹さんと庄野潤三さんの作品をゆるゆる楽しんでいます。