外国文学の世界

サリンジャー「愛らしき口もと目は緑」浮気な女と都会の情事

サリンジャー「愛らしき口もと目は緑」あらすじと感想と考察

サリンジャー「愛らしき口もと目は緑」読了。

本作「愛らしき口もと目は緑」は、1951年(昭和26年)7月『ザ・ニューヨーカー』に発表された短編小説である。

この年、著者は32歳だった。

作品集としては、1953年(昭和28年)にリトル・ブラウン社から刊行された『ナイン・ストーリーズ』に収録されている。

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中年男性と不倫の情事の虚しさ

本作「愛らしき口もと目は緑」は、若き人妻と情事に耽る中年男性の心の動揺を描いた不倫小説である。

作品集『ナイン・ストーリーズ』の中で、本作が話題に上ることが少ない理由は、都会の男女の不倫を題材にしているという、ストーリー上の性格故だろうか。

物語はベッドシーンから始まる(というか、この小説には、ベッドシーンでの会話しか出てこない)。

ある深夜、ベッドで若い女とイチャイチャしていた白髪まじりの男<リー>のところに、事務所の後輩<アーサー>から電話がかかってくる。

どうやらアーサーの妻が帰っていないらしく、泥酔したアーサーは半狂乱になっている。

「俺にはどうも女房の野郎、台所でどっかの馬の骨にモーションかけたんじゃないかっていう気がするんだ。どうもそんな気がするよ。あいつ、酔っ払うと、きまって台所でどっかの野郎といちゃつきやがるんだ」(サリンジャー「愛らしき口もと目は緑」野崎孝・訳)

この物語のポイントは、アーサーの電話によって、人妻を寝取っている最中のリーの心境に、大きな変化が現れていくところだろう。

アーサーがジョーニーを罵倒するところでは、リーはそれとなくジョーニーの弁護をする。

アーサーが、「ジョーニーはどんなに老いぼれた薄汚い不潔な男とも寝るんだ」と言ったときには、リーはそれが自分のことを指摘されたような気がして、大きな声で相手を制する。

さらに、アーサーが、「ジョニーとはもう離婚する」と言ったときには、自分が離婚原因となったような気がして動揺する。

このとき、アーサーは、夫と別れた人妻の面倒を自分が見ることになりはしないかと、ちょっと不安を覚えたに違いない。

ところが、アーサーが、ジョーニーから優しくされたという思い出話を始めたところで、リーの性欲は急速に冷めてゆく。

結局のところ、人妻というのは、最後には家庭の中へ帰っていくものだ。

そのことが、アーサーに不倫の情事の虚しさを思い出させたのかもしれない。

一度切れた電話が再び鳴り、アーサーは「ジョーニーが帰ってきた」とリーに報告する。

アーサーとジョーニーの件は落着したが、リーには既に、隣で寝ている女とセックスを続ける気持ちにはなれない。

「あたしはなんだか犬にも劣る女みたい!」などと言っている女の向こう側に、リーは、アーサーと同じように、嫁の帰りを待っている哀れな男の姿を見たのだろうか。

ところで、一般的に、リーと寝ている若い女性は、アーサーが探している妻のジョーニーだと解釈されているが(最後にアーサーが「ジョーニーが帰ってきた」と電話してくるのは虚言)、今回、改めて読み返してみると、リーと寝ている女がジョーニーだという明確な描写はない。

もしかすると、リーと寝ている女がジョーニーだというのは、読者のミスリードを誘う、巧妙な仕掛けだったのではないだろうか。

そう考えると「妻が帰宅した」というアーサーの報告は筋が通っているし、リーと寝ている女がジョーニーではない方が、むしろ、物語に深みが生まれるように思えるのだが(登場人物が一人増えることになる)。

ちなみに、野間正二「戦争PTSDとサリンジャー 反戦三部作の謎をとく」では、アーサーの性的不能(インポテンツ)が指摘されている。

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現代社会の闇を標的にした、病んだ都会の物語

この物語のもう一つのポイントは、若い女と情事に耽ったり、妻が帰って来ないと騒いだりしている男たちは、大都会ニューヨークの弁護士事務所に勤めるインテリ男性たちであるということである。

それなりの社会的地位を有する上流階級の弁護士たちが、女性のことで右往左往している様子は、実に滑稽でさえある。

アーサーは、そんなバカ騒ぎの理由を「正直言ってニューヨークという町のせいだと思うぜ」と、リーに投げかける。

「つまり、その──あんたは別だけど──ニューヨークでおれたちの知ってる連中は、みんなノイローゼみたいなもんだからさ。分るだろ、俺の言う意味?」白髪まじりの男は答えなかった。(サリンジャー「愛らしき口もと目は緑」野崎孝・訳)

「あんたは別だけど」とアーサーは言ったが、「ノイローゼみたいな連中」の中には、もちろんリーも含まれている。

そのことを一番良く理解しているのは、当のリー自身だ。

不貞の妻を素材にしながら、本作「愛らしき口もと目は緑」が浮かび上がらせているのは、大都会ニューヨークに潜む「人間の闇」である。

「バナナフィッシュにうってつけの日」で、人間は、無秩序にバナナを食べ続ける<バナナフィッシュ>として描かれていた。

本作「愛らしき口もと目は緑」もまた、現代社会の闇を標的にした、病んだ都会の物語なのである。

作品名:愛らしき口もと目は緑
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
発行:1974/12/20(1988/1/30改版)
出版社:新潮文庫

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。