サリンジャー「気ちがいのぼく」読了。
本作「気ちがいのぼく」は、1945年(昭和20年)12月『コリアーズ』に発表された短編小説である。
この年、著者は26歳だった。
本国アメリカにおいて、作品集に収録されることはなかった。
「I’m Crazy(僕はちょっとおかしい)」
本作「気ちがいのぼく」は、寄宿舎制の学校を放校になった高校生<ホールデン・コールフィールド>が、僕は頭がおかしいんだとつぶやいている、そんな物語である。
ひどく寒かった。気ちがい野郎だけがこんな所に立っているんだろう。ぼくがそうだ。気ちがい沙汰だ。冗談でなく、気が変なのだ。だがぼくがそこに立たねばならなかったのは、老人よろしく、その場の若さにさよならを言いたいからだった。(サリンジャー「気ちがいのぼく」刈田元司・訳)
凍り付くような雨の降る夜8時、コールフィールドは丘の頂に立って、体育館から伝わってくる生徒たちの歓声を聞いている。
学校を去る、最後のセレモニー(葬式)だった。
それからコールフィールドは、自分のことを心配してくれているスペンサー先生の自宅を訪ねる。
スペンサー先生は、コールフィールドに学校の大切さを諭すが、老人と若者との溝は埋まらない。
スペンサー先生は言った、「大学へ行く計画があるのかい、君?」「計画はありません」とぼくは言った。「ぼくは一日一日を生きて行きます」いんちきくさく聞こえたが、自分でもいんちきらしい気持がしはじめた。(サリンジャー「気ちがいのぼく」刈田元司・訳)
それからコールフィールドは、深夜の自宅にこっそりと戻る。
コールフィールドが真っ先に向かったのは、妹たち(フィービーとヴァイオラ)の部屋だった。
「ホールデン!」と彼女は言った。「お父さんに殺されちまうわ」「仕方がなかったんだよ、フィービー」とぼくは言った。「いつも試験やなんかでいじめ、勉強時間とかなんとかしょっちゅう強制しているんだからね。気がちがってきたんだ。ただ嫌いなんだ」(サリンジャー「気ちがいのぼく」刈田元司・訳)
これが三度目の退学だった。
父親は、もう学校へは通わずに働くようにと言った。
コールフィールドは、二度と学校へは通うことはないのだと思いながら、これから自分が働くことになる事務所を好きになることも、またないだろうと考えていた──。
イノセントなホールデン・コールフィールド
これは、学校に順応することができない少年の物語である。
10代の少年にとって、学校は社会そのものでもあるから、コールフィールドは、社会に適応することのできない少年ということになる。
彼は「I’m Crazy(僕はちょっとおかしい)」と自分を揶揄するが、本当におかしいのは、果たして本当にコールフィールドだったのだろうか。
教師のスペンサー先生は、コールフィールドの考え方や行動を、最後まで理解することができない。
一方で、幼い妹たち(フィービーやヴァイオラ)と、コールフィールドは価値観を同じくすることができる。
高校生くらいになると、そろそろ大人の仲間入りをする年代だが、コールフィールドは、大人の仲間入りをすることができないでいる。
むしろ、自ら進んで、大人の世界へ入ることを拒んでいるかのようだ。
ここに、コールフィールドが「I’m Crazy(僕はちょっとおかしい)」を自分を揶揄することの素因がある。
成長過程の隙間で、コールフィールドは身動きできなくなってしまったのだ。
困難な立場に立たされたときに「I’m Crazy(僕はちょっとおかしい)」と自分を批判するのは、コールフィールド自身のイノセンスだろう。
タイトルが小説のテーマになっていて、小説のテーマは、イノセントな少年の心の叫びである。
「I’m Crazy(僕はちょっとおかしい)」は、自分自身を傷付ける、心のリストカットのようなものだったのかもしれない。
言うまでもなく、この短篇小説は、後の長編小説『ライ麦畑をつかまえて』の原型となる作品だが、『ライ麦畑』よりずっと入りやすいし、テーマも分かりやすい。
何より、現代社会でも十分に通用する普遍性がある。
『ライ麦畑』が長すぎると思う人は、まず、この短篇小説から入ってみてはいかがだろうか。
作品名:気ちがいのぼく
著者:J.D.サリンジャー
訳者:刈田元司
書名:サリンジャー選集(2)若者たち<短編集Ⅰ>
発行:1968/10/31
出版社:荒地出版社