庄野潤三「戸外の祈り」読了。
本作「戸外の祈り」は、「婦人之友」昭和44年5月号に発表された短篇小説である。
作品集としては、『小えびの群れ』(1970、新潮社)に収録された。
文庫では『絵合せ』(講談社文庫、講談社文芸文庫)がある。
いわゆる「明夫と良二」シリーズの作品で、作中、長男・明夫が高校生、次男・良二が中学一年生として登場している。
全部で5章の断片的なエピソードから構成されていて、中核となっているのは、作品タイトルにもなっている「戸外の祈り」だろう。
節分の夜、父が出かけていて不在の一家は、長男の明夫が代表になって豆まきをする。
豆をまくために、玄関の戸を開けて外へ出たとき、夜空に大きな月があった。
すると、もう殆ど真上のところに、まんまるのお月さんがあって、そのお月さん、前の日が満月だった。だから、まんまるで、そのまわりに大きーい、どれぐらいだろう、ぱっと見たところでどれぐらいだろう。何しろひろーく、月をまん中にして、ちょうどまんまるな、白っぽい輪が出来ていた。(庄野潤三「戸外の祈り」)
大きな月を見た子どもたちは、大きな月に向かってお祈りをする。
二年ほど前、やはり冬の夜に、家族で流れ星を見たとき、上の二人は見つけたのに、良二だけがうっかり気がつかなかった。
それでひとりだけ悄気ていたことがあるので、物語の語り手(庄野さん自身だろう)は、「今度はうまく行った」と喜んでみせる。
二年前に流れ星を見たときのエピソードは「星空と三人の兄弟」(1965)に出ているが、当時、一人だけ流れ星を見ることができなかった良二は、今回、リベンジを果たしたわけだ。
物語は、お月さまへお祈りをするエピソードを中核として、いくつかの「祈り」が組み合わせられている。
ただおかしいというのではない。こちらも同情せずにはおられない。
作品冒頭では、良二が「明ちゃん、お願い。お願い」「たのむ。お願い。明ちゃん」と大きな声を出している場面から始まる。
何だろう。あんなに夢中になって。何を兄にしてほしいというんだろう。その声が、どうしておかしく聞えるんだろう。笑わずにおられない。しかし、おかしいことはおかしいが、ただおかしいというのではない。こちらも同情せずにはおられない。
貰い泣き、というのがある。この場合は、いくらかそれに近いものがある。同情せずにはおられないが、おかしい。それよりも、もっとじかにこちらの胸に来るものがある。何だろう。(庄野潤三「戸外の祈り」)
結局、良二のお願いは、いかにも他愛ないものであることが、すぐに分かるのだが、この良二の悲痛な「お願い」は、物語全体を通して、ひとつの主題として流れているようだ。
日曜日の朝食のときにも、良二は、悲痛な「お願い」を繰り返している。
「あ、明ちゃん。やめて」「やめて、明ちゃん。こわれる」
これもまた、いかにも他愛のない「お願い」であるのだが、庄野さんは、こうした家庭内に現われる日常的な「祈り」の中に、おかしみと憐みの両方を感じ取っていたのだろう。
われわれは、生きているうちにそんなに多くの人と知合いになるものではない。
最後の章では細君が「一生のうちには、どんな人にも不思議な経験というのが、一つか二つはあるのではないかしら。でも、そういう話を実際に聞くということは、難しいものでしょうね」といったような話をする。
聞き書き小説を得意とする庄野さんの文学にまでつながっていきそうな話だ。
たしかにそれは彼女のいう通りかも知れない。だが、われわれは、生きているうちにそんなに多くの人と知合いになるものではない。また、知合いになっても、その人から過去において出会った事柄の中で、心に深い印象をとどめている不思議なことを、運よく聞かせて貰えるわけではない。(庄野潤三「戸外の祈り」)
小説を書くことの難しさを、庄野さんは考えていたのだろうか。
あるいは、この最後の章は、作家である庄野さん自身のために書かれたものであったのかもしれない。
書名:小えびの群れ
著者:庄野潤三
発行:1970/10/20
出版社:新潮社