外国文学の世界

サリンジャー「フラニーとゾーイー【フラニー編】」意識高い系男子と電波系女子のこじらせデート

サリンジャー「フラニー」意識高い系男子と電波系女子の週末デートの行方

サリンジャー「フラニー」読了。

「フラニー」は、1955年(昭和30年)、『ザ・ニューヨーカー』に発表された短編小説である。

この年、著者は36歳だった。

なお、単行本としては、1961年(昭和36年)に刊行された『フラニーとゾーイー』に収録されている。

深読みを求められるサリンジャー文学

普通に考えて、サリンジャーくらい深読みを求められる作家も珍しいと思う。

サリンジャーは、作品の中に説明的な文章をほとんど加えなかったから、読者は独自に深読みすることを強いられてしまうのだ。

その上、サリンジャーは、作品の説明不足を、別の作品によって補足しようとしたから、読者は一連の作品を読み解くことによって、一つの作品を理解することが必要となった。

「グラス・サーガ」と呼ばれる一連のグラス家ものを理解するためには、全部の作品を読まなければいけないという、なかなか面倒な手続きを、読者のためにサリンジャーは用意したわけである。

その点、この「フラニー」は、単行本化する際に「ゾーイー」と併せて収録され、『フラニーとゾーイー』というタイトルまで与えられたから、この両作品は、連作短編としての位置付けが明確に示されている。

「フラニー」は、一般的に、主人公の女子大生<フラニー>の自意識を中心に考察される場合が多い。

フラニーの自意識を浮き上がらせるのが、エリート意識丸出しの恋人<レーン>ということになるのだが、この作品を、グラス・サーガから離れて、男子大学生レーンの視点から読み解くと、どのようになるだろうか。

レーンは、一流大学に通う意識高い系の男子学生で、週末デートで恋人のフラニーを、ちょっとしたこだわりの感じられるオシャレなレストランへと案内する。

この店で、レーンは、意識高い系男子にありがちな自己PRを繰り広げるのだが、普段から意識高い系男子に辟易しているフラニーは、気持ち悪くなってしまい、長々と宗教の話を披露した上で、気を失ってしまう。

気合いを入れて週末デートの計画を立てていたレーンの努力は、すべて水の泡で、この二人の将来は、かなりヤバい。

「とにかくわたしには、自分が気がヘンになりそうだということしかわかんない」と、フラニーは言った。「エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようなことかなんかをやりたい、人から興味を持たれるような人間になりたいって、そればっかしなんだもの、わたしはうんざり」(サリンジャー「フラニー」野崎孝・訳)

自己主張の激しい世の中に嫌気が差したフラニーは、大好きだった演劇まで辞めてしまうという。

自己主張がせめぎ合う社会で生きていこうとしているレーンにとって、フラニーの主張は、まるで子どもの意見のように思われたかもしれない。

祈り続けるフラニーの姿から見えてくるもの

いや、子どもの意見ならば、まだしも、この後、フラニーは宗教の話を熱っぽく語って聞かせる。

キリスト教ばかりか、仏教の「ナム・アミ・ダブツ」という念仏にまで及ぶくらい、フラニーの話は念入りだった。

卒倒から目覚めた彼女は、祈りの言葉をつぶやき続ける。

「よし。すぐ戻ってくる。じっとしてるんだぜ」そう言って彼は部屋を出た。一人とり残されたフラニーは、じっと横になったまま、天井を見つめていた。その唇が動き出すと、声の無い言葉を語り始めた。そしてそのまま唇はいつまでも動き続けていた。(サリンジャー「フラニー」野崎孝・訳)

静かに祈り続けるフラニーの姿を見ていると、おかしいのは、果たしてどちらなんだろうかという疑問が浮かぶ。

レーンから見れば、狂っているのは明らかにフラニーであり、彼の目には、熱く宗教を語る恋人が電波系女子にさえ見えていたかもしれない。

一方、フラニーにとって狂っているのは、自己主張ばかりがまかり通る、この世の中である。

社会と自分自身との折り合いを付けられない彼女は、ひたすら自分の中で祈り続ける。

このままいけば、彼女を待っているのは破滅だろうとしか思われないほど、フラニーの姿は痛々しいが、問題は、この物語の主人公がフラニーだということである。

意識高い系男子のレーンは、フラニーの持つ違和感を露にするためのダシにしか過ぎない。

そこに、この物語の主張が含まれているのだ。

著者のサリンジャーは、女子大生フラニーが抱えている困難を、次作「ゾーイー」で明らかにしようとする。

災難だったのは、せっかくの週末を台無しにされた意識高い系男子のレーンだろう。

彼もまた、子どもっぽい自己主張を持つフラニーとの折り合いを付ける術を心得ていなかったのだ。

フラニーのような女の子には、人生経験の豊富な中年男性の方がお似合いだったのかもしれないなあ。

などというように、勝手気ままな深読みが許されているのがサリンジャー文学というやつである。

続いて「ゾーイー」を読もう。

作品名:フラニー
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
書名:フラニーとゾーイー
発行:1991/4/20 改版
出版社:新潮文庫

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じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。庄野潤三さんの作品を中心に、読書の沼をゆるゆると楽しんでいます。