外国文学の世界

サリンジャー「彼女の思い出」ホロコーストで死んだ少女とアメリカの平和

サリンジャー「彼女の思い出」あらすじと感想と考察

サリンジャー「彼女の思い出」読了。

本作「彼女の思い出」は、1948年(昭和23年)2月『グッド・ハウスキーピング』に発表された短編小説である。

原題は「A Girl I Knew」。

この年、著者は29歳だった。

本国アメリカでは単行本化されていない幻の作品(日本では何度か出版されているが)。

ナチスのホロコーストで虐殺された少女の思い出

本作「彼女の思い出」は、切ない青春小説である。

好きだった女の子が、第二次大戦中にナチスのホロコーストにより虐殺された。

物語のプロットは至ってシンプルだが、しかし、この作品からは、ホロコーストに留まらない、もっと大きなテーマが伝わってくる。

最大の見せ場は、久しぶりに訪れたウイーンで、彼女を探す場面だろう。

物語の語り手である<おれ>は、戦前にウィーンで暮らしていたことがある。

そのときに知り合った美しすぎる少女<リーア>に、<おれ>はすっかりと恋をしてしまうが、彼女には既に婚約者がいた(彼女の親がそう決めていた)。

<おれ>とリーアは、時々他愛ない会話を交わすだけの、清らかな交際を続けた。

このときの甘美な思い出が、作品の前半部を支える中核となっている。

リーアがおれの部屋のドアをノックする音はいつも詩だった。高く美しく響く、屹立した詩だった。リーアのノックは彼女自身の無邪気さと美しさを宣言するところから始まって、意図せずして、すべての若い女の子たちの無邪気さと美しさを宣言するところで終わる。おれはいつも、敬意と幸福感にさいなまれながら、リーアのためにドアを開けた。(J.D.サリンジャー「彼女の思い出」金原瑞人・訳)

彼女との思い出は、まるで散文詩のように美しい調べで語られていく。

このまま終われば、甘ったるい青春小説として、それはそれで平和な物語を紡ぎ出すことができただろう。

しかし、<おれ>がアメリカへ帰国した後、ヒトラーの軍隊がウィーンへ侵攻したことによって、物語は大きく展開していく。

<おれ>は、ヨーロッパ戦線に兵士として派遣されるが、リーアの行方を知ることはまったくできなかった。

やがて、戦争が終わり、<おれ>はウイーンまで軍関係の書類を届けに行くことになる。

懐かしい<シュティーフェル通り>。

<おれ>はリーアの行方を尋ねて歩くが、はっきりとした情報は、なかなか得られない。

ブーヘンヴァルト強制収容所から戻ってきたばかりのヴァインシュタイン先生を訪ねに行くところで、場面は変わる。

<おれ>は、かつて自分が住んでいたシュティーフェル通りの建物を訪ねる。

そこは士官たちの宿舎になっていたが、<おれ>は二階へ上がらせてくれるように頼みこむ。

その建物は、かつてリーアが暮らしていた建物でもあり、<おれ>とリーアが出会った思い出の場所でもあるのだ。

なかなか通してくれない軍曹に、<おれ>は事情を説明して必死で頼みこむ。

「そうか。で、その子はいまどうしてる」「死にました」「そうか。なんでまた」「家族といっしょに焼却炉で焼き殺されたそうです」「そうか。ユダヤ人だったとか」「ええ。一分だけ、いいですか」みるからに、軍曹は興味を失ったようだった。(J.D.サリンジャー「彼女の思い出」金原瑞人・訳)

思い出の場所を訪ねて帰ろうとしたとき、軍曹が声をかけてきた。

「おい、シャンパンってやつはどうすればいいか知ってるか?」

知りませんと答えて、<おれ>はその建物を出ていった──。

軍曹の無関心はアメリカ社会そのものの無関心の象徴だった

この物語のテーマは「激しい怒り」だが、本作においては、特に三つの怒りが重層的に響き合っている。

ひとつは、恋するリーアの命を奪ったナチス(あるいは戦争)というものに対する怒り。

ふたつめは、リーアを守ることができなかったアメリカ軍(つまり自分自身)への怒り。

そして、三つめは彼女の虐殺に何の関心も示さない二等軍曹(つまりアメリカ社会)への怒りである。

ここで特に問題となるのは、少女が焼却炉で焼き殺されたと聞いて、明らかに興味を失ったらしい軍曹に対する猛烈な怒りである。

おそらく、サリンジャーは、この二等軍曹一人の向こう側に数百万人のアメリカ国民の姿を見ていたはずだ。

愚鈍な二等軍曹は平和なアメリカ社会の象徴であり、軍曹の無関心はアメリカ社会そのものの無関心を象徴しているのだ。

従軍から解放されて以降、帰還兵となったサリンジャーは、様々な形で、戦場とアメリカ社会との温度差の違いを描き続けてきた。

アメリカの一般市民にとって戦争は、遠い戦場を舞台とするドラマであり、それは現実の生活に中に存在するものではない。

命を懸けてアメリカ国民のために戦ったサリンジャーにとって、こうしたアメリカ国民の平和は、きっと欺瞞な存在に見えたことだろう。

だからこそ、サリンジャーは小説を書き続けたのだ。

美しくて詩情溢れる青春の日の記憶に託して。

もしかして、サリンジャーは、アメリカと対峙し続けた作家だったのだろうか。

アメリカを愛しているからこそ、サリンジャーは、書き続けなければならなかったのかもしれない。

作品名:彼女の思い出
著者:J.D.サリンジャー
訳者:金原瑞人
書名:彼女の思い出/逆さまの森
発行:2022/07/25
出版社:新潮社

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。