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サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」読了。
ひと言で言って、この小説のポイントは、その作品タイトルに凝縮されている。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、野崎孝の歴史的翻訳では「ライ麦畑でつまかえて」となっている、あのタイトルだ。
正確な日本語訳としては「ライ麦畑でつかまえる人」が正しいことから、村上春樹訳では「ライ麦畑でつまかえて」の作品タイトルは踏襲されなかったが、意訳として理解するならば「ライ麦畑でつまかえて」という翻訳でも、別に問題ないんじゃないかと思ってしまう。

ライ麦畑でつかまえて — 誰が、何をつかまえるのか?
それは、作品本文を読んでいけば分かる。
世界中のインチキにうんざりしている16歳の少年ホールデンが、妹フィービーの質問に答える形で、「僕が何になりたいかってことだけどさ」と話し始める場面だ。
でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮べちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。
それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方へ走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっと “キャッチ” するんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。
ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれぐらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけれどね。(サリンジャー/村上春樹訳「ライ麦畑でつかまえて」)
主人公のホールデンは、欺瞞に満ちた大人社会を受け入れることができず、純粋に生きている子どもたちの世界に踏み止まろうとしているのだが、「ちゃんとした大人みたいなのは一人もいない」「だだっぴろいライ麦畑みたいなところ」こそが、彼自身の求める居場所に他ならない。
しかし、現実には、その「だだっぴろいライ麦畑みたいなところ」には、既に彼の居場所はなく、彼自身が「そのへんのクレイジーな崖っぷちから落ちそうになる子ども」となってしまっている。
ホールデンは、大人社会を拒否してみせる一方で、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチしてくれる「ライ麦畑のキャッチャー」の存在を待ちわびているのだ。
だから、「ライ麦畑でつかまえて」という作品タイトルを、崖っぷちから落ちそうになっているホールデンが発したSOSの言葉だと理解するなら、小説の意図としては別に間違っているわけでもない、と解釈することも可能だと思う。
翻訳者が、そんな意図で、この作品を「ライ麦畑でつかまえて」と訳したかどうか分からないけれどね。
とにかく全編を通して、大人社会に不満を持つホールデンの鬱憤が書き綴られていて、そろそろ、適当に折り合いを付けることを求められる年齢となった少年の悲痛な叫びが、痛いほどに描かれている物語だ。
それは、子どもから大人へと成長していく過程で、誰もが一度は通り過ぎることかもしれないけれど、自身の成長すら拒否してしまいかねないホールデン少年の苛立ちは、あまりにも悲しすぎる。
ホールデン少年が、その後、どうなったか。
1951年の発表から70年の時を経て、今も僕たちは、その答えを探し続けている。
書名:キャッチャー・イン・ザ・ライ
著者:J.D.サリンジャー
訳者:村上春樹
発行:2003/4/20
出版社:白水社
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