日本文学の世界

小沼丹「更紗の絵」戦後復興の時代を爽やかに描いた自伝的長編小説

小沼丹「更紗の絵」あらすじと感想と考察

小沼丹「更紗の絵」の読了。

本作「更紗の絵」は、1967年(昭和42年)7月から1968年(昭和43年)12月まで『解脱』に連載された長編小説である。

連載開始の年、著者は49歳だった。

単行本は、1972年(昭和47年)6月にあすなろ社から刊行されている。

戦後復興の東京を描いた自伝的長編小説

本作「更紗の絵」は、二十六、七歳の青年<吉野君>が、学校再建に携わる話を中心に描かれた戦後復興の物語である。

更紗(さらさ)とは木綿地に文様を染めた布製品のことで、インド更紗、ジャワ更紗、ペルシャ更紗などがあるが、文様として人物の顔を染めることが多い。

物語の終盤、吉野君は、大学の同僚の自宅で、更紗について書かれている本を見せてもらう。

吉野君は、その本を疎開するときに売ってしまったから、非常に懐かしい気持ちになった。

古い懐しい本を見ていると、吉野君の脳裡に、その本を持っていた頃のことが、それから、その后のことが、いろいろと浮んで来た。ジャワの娘は恋唄を歌いながら更紗の絵を描いたと云う話があるが、吉野君の絵はどんな模様を蝋染めにするのだろうか。(小沼丹「更紗の絵」)

終戦直後に出会った様々の人物を織り込んだ、この物語は、著者にとっての更紗の絵である。

つまり、本作に登場する吉野君は小沼丹であり、本作に登場する戦後は、小沼丹にとっての戦後なのだ。

この自伝的長編小説は、戦争の終わった翌年の四月から開校する<E・E学園>を、主な舞台としている。

細君の父親が校長をしていることから、吉野君は、この中学校の主事(教頭みたいなものか)として関わることになる。

学校を舞台にしていると言いながら、教師と生徒との交流を描いた青春学園ものと違って、本作では、吉野君の生活を中心として、交流のあった様々な人たちが登場する。

通訳として顧問を頼まれた会社では、若い女の子から身の上相談を持ちかけられたりもする。

吉野君は、急に威勢良くなってそう云った。「──そうですか?」「──うん。気に入らないけれども、食うものがあるから嫁に行くなんて吝嗇な根性は止した方がいい」「──あたしは別に……」「──食うものは無いけれども、気に入ったから嫁に行くって云う方が僕は好きだ」(小沼丹「更紗の絵」)

特別のドラマは起こらないが、一つ一つのエピソードが生き生きと、明るく爽やかに描かれている。

懐かしいのに感傷的でない。

戦後の大変な時代が、さらりと描かれている。

そこに、この作品の値打ちがあるのではないだろうか。

日本の再起と日本人の再起とを描いた戦後復興の物語

久しぶりに、読み終わって寂しい気持ちになった。

楽しい長編小説を読み終わった後で感じる、あの寂しさである。

本作「更紗の絵」は、終戦直後の日本を描いた戦後復興の物語である。

戦後の東京は、物語の様々な場面で描かれている。

母校の予科に行くにも、その頃は不便であった。十五分ぐらい歩いて、バスの停留所に出なければならなかった。そのバスもひどい代物で、矢鱈に混んで、雨が降ると屋根から水が漏って来た。窓硝子も破れていて、冬なぞ寒い風が遠慮無く吹込む。のみならず、道がひどかったから、バスは絶えずがったんがったんと大きく上下して激しく揺れる。(小沼丹「更紗の絵」)

こうした戦後社会のスケッチが、本作では重要な要素となっている。

記憶に残る戦後の日々の一つ一つが、小沼丹にとっての「更紗の絵」だったということなのだろう。

物語は、吉野君が最初に受け持った生徒たちが、学園を卒業していくところで終わりを迎える。

<X大学予科の講師>とか<W産業の通訳顧問>とか、吉野君にはいろいろの生活があったけれども、この小説は、やはり、吉野君とE・E学園との物語なのだ。

終戦直後の暮らしは、多くの日本人に様々の印象を与えたはずだ。

特別な時代の特別な思い出、それが、小沼丹にとっての「更紗の絵」という作品だったのではないだろうか。

作中、X大学界隈の変貌ぶりが紹介されている。

学校の前に立つと、眼の前に細長い広い空地が遠く迄続いている。左手には、古い大学の講堂がちゃんと残っている。その講堂があるために、消えた町が余計儚く想い出される。果してその町は実在したのかしらん?(小沼丹「更紗の絵」)

終戦直後、それは、日本という国が新たなスタートを始めた時代である。

同時に、それは、吉野君を始めとするすべての日本人が、新たなスタートを始めた時代でもあった。

だから、この物語は、日本の再起と吉野君に代表される日本人の再起とを描いた物語ということもできるのだと思う。

現代日本のひとつの原点が、ここに描かれているのだ。

この小説が、現在入手困難というのは、何とももったいない話である(自分は全集を買って読んだ)。

もっと多くの人に読んでほしい作品だと思った。

作品名:更紗の絵
著者:小沼丹
書名:小沼丹全集(第二巻)
発行:2004/07/23
出版社:未知谷

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。