小沼丹「『一番』」読了。
本作「『一番』」は、1976年(昭和51年)5月『群像』に発表された短編小説である。
この年、著者は58歳だった。
作品集としては、1978年(昭和53年)6月に講談社から刊行された『木菟燈籠』に収録されている。
井伏鱒二と通った荻窪の鮨屋「一番」
本作「『一番』」の<一番>というのは、荻窪にある鮨屋の店前である。
広い大通から横町に入って少し行った所に、「一番」と云う鮨屋がある。一番と云うのは余り鮨屋らしくない名前だと思うが、何故そんな名前を附けたのか、訊いたことが無いから知らない。(小沼丹「『一番』」)
著者は、多分、十年ぐらい前から、この店へ通うようになった。
場所が荻窪だから、当然に清水町先生(井伏鱒二)が登場する。
移転前の「一番」は、横町の奥の方にあって、その二、三軒手前に、知人の画家がやっている喫茶店があった。
喫茶店といってもウイスキーくらいは置いているので、知った顔を探して、時々ウイスキーを飲みに寄った。
尤も、誰か知った顔が這入って来る前に、うとうとすることがある。笑声がするので気が附くと、知らぬ間に近くに清水町先生が坐っていて、「──君はよく寝るね」と云われた。そんなことが何度かある。(小沼丹「『一番』」)
前の女房が死んで再婚することになったときも、何軒か知っている店を回った後で、この店に寄った。
相手は珈琲を、当方はウイスキイを貰って飲んでいる裡に眠ったらしい。気が附いたら、主人夫婦が笑っていた。「──眠ったかしら?」「──ぐっすり眠っていましたよ。家内と、幾ら何でも今夜は眠らないだろうって話していたんですがね…」(小沼丹「『一番』」)
このとき、「一番」にも寄ろうと思ったけれど、店は、あいにく休みだった。
だから、その頃から著者は「一番」へ通っていたのだろう。
ちなみに、「一番」のモデルは、荻窪教会通りにあった寿司屋「ピカ一」である。
井伏鱒二と過ごした日々の、小沼丹の物語
「一番」のお内儀さんは、色白でぽっちゃりしていて、いつもにこにこしている。
一方の主人は、四十少し過ぎで、一向に愛想のないおとなしい男だったが、これは生来無口で口下手のせいらしい。
ところが、あるとき、将棋の話になった途端、普段は無口な男が話し始めた。
「──何だ、将棋を指すのか…」「──清水町先生は、お強いそうですね?」「──うん。先生は四段だ」「──四段じゃ強いですね」「──君は強いのかい?」「いえ、駄目なんです」(小沼丹「『一番』」)
二人は勝負を始めるが、相手は下手の横好きで、まるで勝負にならない。
「──ちょいと、不味かったですかね…」などと、主人が残念そうに言っていると、二階で赤ん坊の声がした。
訊けば、その子は男の子で、上に女の子もいるらしい。
将棋を指したせいか、著者は、昔通っていた<末さん>の店のことを思い出す。
この店も、清水町先生と飲んだ店の一つだったが、ある夜、清水町先生と一緒に出かけていくと、なんだか様子がおかしい。
「どうかしたんですか?」と清水町先生に訊くと、「何だ、君は知らなかったのか? 死んだんだよ」と言うから驚いた。
横町の店に行くようになったのは、末さんが死んで十年ばかり経った頃だから、末さんの死んだのは二十年程前と云うことになる。今更驚いても始らないが、いつの間にそんな時間が流れたのかしらん?(小沼丹「『一番』」)
物語のクライマックスは、「一番」のお内儀さんが亡くなったことを知らされたときである。
その夜も、著者は清水町先生と飲み歩いていて、「一番」まで行ったところ、お内儀さんが亡くなったばかりであることを伝えられたのだ。
「判らないもんですね…」と言うと、清水町先生はうなずいて「判らんもんだ。あの男もこれから大変だな」と言った。
本作「『一番』」は、鮨屋のお内儀さんを軸に、馴染みの飲み屋で出会った人々を懐かしく偲ぶ物語となっている。
こういう作品を読むと、人生というのは、本当に出会いと別れの繰り返しなんだなあと、しみじみ思う。
実際、小沼丹自身、先妻を亡くして後妻と結婚したときのエピソードを、この作品の中にも織り込んでいるから、きっと、そのことを意識していたのだろう。
それにしても、どの飲み屋にも、清水町先生(井伏鱒二)が登場するのには笑った。
この作品は、井伏鱒二と過ごした日々の、小沼丹の物語でもあるのだ。
作品名:「一番」
著者:小沼丹
書名:木菟燈籠
発行:2016/12/09
出版社:講談社文芸文庫