日本文学の世界

井伏鱒二「荻窪風土記」時代の移り変わりを描いた自伝的昭和文壇史

井伏鱒二「荻窪風土記」あらすじと感想と考察

井伏鱒二「荻窪風土記」読了。

本作「荻窪風土記」は、1981年(昭和56年)2月から1982年6月『新潮』に、「豊多摩郡井萩村」として連載された長編随筆である。

単行本は、1982年(昭和57年)11月、新潮社から『荻窪風土記』として刊行された。

この年、著者は84歳だった。

庄野潤三が語った『荻窪風土記』

庄野潤三に「『荻窪風土記』の思い出」という随筆がある(『きぼしの花』所収)。

井伏鱒二の『荻窪風土記』が出版されたときに、「汽笛と武蔵野の森」という随筆(同じく『ぎぼしの花』所収)を書いたときの思い出を綴ったものだ。

書評は普通一頁分になっているものだが、今度の井伏さんの「荻窪風土記」は、ほぼ一年半にわたって『新潮』に連載された作品で、昭和二年に荻窪へ越して来られてから今日までのご自分の身のまわりに起こった様々な出来事を扱いながら、パノラマのように世相を移り変わりを描いた、いわば集大成のお仕事なので、二頁でも三頁分でも結構です、と言われたという。

「汽笛と武蔵野の森」の中で庄野さんは、この『荻窪風土記』について、「多彩で変化に富み、全体を一つの叙事詩として読むことができる」と評している。

井伏さん自身も「あとがき」の中で、「小説でなくて自伝風の随筆のつもりである」と書いているように、『荻窪風土記』は井伏鱒二の自伝的な要素が多く含まれている。

井伏さんが荻窪へ暮らすようになったのは、1927年(昭和2年)のことである。

私は昭和二年の初夏、牛込鶴巻町の南越館という下宿屋からこの荻窪に引越して来た。その頃、文学青年たちの間では、電車で渋谷に便利なところとか、または新宿や池袋の郊外などに引越して行くことが流行のようになっていた。(井伏鱒二「荻窪風土記」)

荻窪生活は、昭和に入ってからだが、『荻窪風土記』では、大正時代の関東大震災の思い出から綴られている。

社会情勢の変化や街並みの移り変りとともに語られているのが、文学仲間や近所の人たちとの交流だ。

様々な人々の思い出が、時系列にはあまりこだわらずに描かれている。

例えば「小山清と木靴」という章では、昭和31年に「木靴」という同人誌を発刊した小山清の思い出が綴られているが、この章は、ほとんど小山清の評伝のようになっている。

都営住宅で暮らし始めて以降、小山清はまともに原稿を書くこともなく、生活保護を受給するようになるが、家族の生活は赤貧で苦しい。

私はこの窮状を、辻さんの友人で「木靴」の石田正雄君から聞いたので、阿川弘之、庄野潤三の両氏に電話して、小山君を助けるための資金カンパというのを頼んだ。阿川君はちょうど自家用車を購入し、操縦が上手になっているようだという話であった。(略)庄野君は義侠の精神に厚く、行動力があると私は睨んでいた。(井伏鱒二「荻窪風土記」)

阿川弘之と庄野潤三の二人は、すぐに出版社を廻って資金を集めて、小山清に届けたという。

この二人は、小山清の妻が自殺した後にも、井伏さんの依頼で資金カンパを集めて回っていて、志賀直哉や松本清張などもカンパに参加していたらしい。

井伏鱒二の目によって描かれた昭和文壇史

『荻窪風土記』は、作家・井伏鱒二の目によって描かれた昭和文壇史である。

昭和期に活躍した多くの文学者の名前が登場しているので、昭和文学に関心のある人だったら、きっと面白いに違いない。

作品解説ではなく、作家の私生活に触れたゴシップが中心だから、作家同士の交流の様子を理解するにも勉強になる。

大正末期、横光利一が人気作家になっているのを見て、焦った井伏さんは「これは、邪道だ。諸君、どうぞお先に、と思わなくてはならん。自分は第三流の作家をもって任じるのだ」と、自分に言い聞かせたという。

参加していた同人雑誌『文芸都市』が廃刊になったとき、『作品』の同人になることを勧めてくれたのは、永井龍男と中村正常で、その頃『作品』には、小林秀雄や河上徹太郎、堀辰雄、青山二郎、大岡昇平などが参加していた。

「われら万障くりあわせ/よしの屋で独り酒を飲む」で有名な詩「逸題」は、外村繫と二人で古本屋へ行った帰りに、一人で飲みに出かけた日のことを書いたものである。

当然だが、太宰治との出会いも詳しく綴られている。

太宰は懐から新聞紙にくるんだ原稿を取出して、私に読んでみてくれといった。イーグルという黄色い罫の小型原稿用紙を、細い赤リボンで綴じた四、五枚ほどの小品三篇である。これはひどいものだと思った。(井伏鱒二「荻窪風土記」)

井伏さんにとって、太宰の思い出は、やはり尽きないもののようである。

『荻窪風土記』を読んでいると、昭和の良い時代の文壇の様子が思い浮かんでくる。

関東大震災、満州事変、太平洋戦争と、大変な時代ではあったけれど、文士たちにとって幸せな時代でもあったのではないだろうか。

作品名:荻窪風土記
著者:井伏鱒二
書名:井伏鱒二自選全集(第十二巻)
発行:1986/9/20
出版社:新潮社

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ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。