日本文学の世界

永井龍男「コチャバンバ行き」小市民にとっての幸福な老後とは何か

永井龍男「コチャバンバ行き」あらすじと感想と考察

永井龍男「コチャバンバ行き」読了。

本書は、1965年(昭和40年)から1968年(昭和43年)にかけて、『小説新潮』に発表された連作短編小説集である。

単行本は、1972年(昭和47年)、講談社から刊行されている。

この年、著者は68歳だった。

1972年(昭和47年)、第24回読売文学賞(小説賞)受賞。

プチ・ブル「湘南人種」を描いた連作短編

タイトルの「コチャバンバ」というのは、作品中の説明によると、ボリビア国コチャバンバ州の州都になっている町の名前である。

『コチャバンバ行き』という作品タイトルだけでは、何を書いた作品か想像しにくい。

読み始めると、すぐに、現役を引退した小金持ちの日常物語であるということが分かる。

主人公<松前寿一郎>は、大企業を課長職で停年退職して、現在は働きに出る妻の留守を預かる主夫として暮らしている。

退職金は少なかったが、親譲りの不動産があった。

鎌倉では古株の住人で、土地の商売人からは「松前の旦那」と呼ばれたりもする(著者曰く「湘南人種」だ)。

寿一郎自身も、地元では顔が効く人間だと思っているらしく、言うことがいちいち面倒くさい。

「新婚旅行は、どこでした」「とても平凡なんですの。蒲郡へ行って、帰りに箱根へ」「蒲郡か。ホテルですね。あすこのマネージャーをしていた男は、うちの親父の下で働いていた男だったが。もっとも、もう七、八年前になる」(永井龍男「犬とスリッパ」)

「犬とスリッパ」では、新婚夫婦が、一時的に松前家に間借りすることになった新婚夫婦の物語だが、一日中家にいる若い嫁<祐子>は、年寄り(寿一郎)の昔話に付き合わされることに辟易している。

寿一郎に悪気はないのだが、若い女性の気持ちを思いやるところにまでは気が回らない。

若い人間は、自分の話を黙って聞いてくれるものだと思い込んでいる。

地元の名士の端くれだという自尊心が、老後の寿一郎を支えていたのかもしれない。

本作は、全部で七つの短編小説から構成されているが、いずれも寿一郎の小市民的な老後が、皮肉の視点から描かれている。

いかにも、こんな年寄りいるよね、といった親しみを持つことのできる小市民が主人公の物語である。

幸福な人生とは何か?

飄々と続いていく七つの物語を大きく展開させていくのは、寿一郎の先輩<植野仙也>である。

「エゴ仙」の悪名を持つほど自分勝手に振る舞う植野に、寿一郎は散々煮え湯を飲まされてきた。

「同じ釜の飯を食った」なぞというが、死んだ飼犬や猫の方を、人間ははるかによく覚えているものだが、人間同士のめぐり合わせという奴は、時々奇妙な再会を構成する。((永井龍男「枇杷の種」))

寿一郎とエゴ仙のいさかいが、この物語を盛り上げていくのだが、最後の「コチャバンバ行き」で、二人の老人は、奇異なニュースを耳にした。

それは、ボリビアの山中を走っていたバスの乗客七人が、目的地に到着したときには全員死んでいた、というニュースである。

乗客は、みな、毒のある木の実を食べたことによる中毒死と考えられたが、不思議なことに、運転手は誰かが苦しんだりする様子をまったく感じなかったという。

微笑が、植野の頬に浮かんだ。「孫の奴は、大人げないとからかっておるが、もしコチャバンバの山中にある、その木の実が、一命を奪うほど強烈な毒を持ち、しかも眠るが如き往生を約束するとすれば、現代人にとっては不老長寿の霊薬にも増した果実ということにならないかな」((永井龍男「コチャバンバ行き」))

この物語の主題は、穏やかな老後とは何か?ということだろう。

穏やかな老後とは、幸せな人生であり、突き詰めると平和な死ということになるかもしれない。

暇を持て余している小金持ちの関心は、どうやって死んでいくか、ということだったんだなあ。

作品名:コチャバンバ行き
著者:永井龍男
書名:永井龍男全集(第八巻)
発行:1981/11/20
出版社:講談社

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青いバナナ
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