庄野潤三の世界

庄野潤三「ワシントンのうた」幼年時代から作家生活までを振り返る自伝的長編随筆

庄野潤三「ワシントンのうた」あらすじと感想と考察

庄野潤三「ワシントンのうた」読了。

本作「ワシントンのうた」は、2006年(平成18年)1月から12月まで『文学界』に連載された、長編随筆である。

この年、著者は85歳だった。

単行本は、2007年(平成19年)4月に文藝春秋から刊行されている。

生前に発表された最後の長編作品である。

実際に体験したことや聞いた話が物語の素材になる

「ワシントンのうた」は、庄野潤三の自伝的長編随筆である。

もっとも、庄野さんは、実際に体験したことを書く作家だったから、既に多くの作品が自伝的な要素をもって発表されている。

今さら新しい話などあるのかと思ったけれど、冒頭に「これまであまりとり上げたことのない私の幼年時代のことを中心に書いてみたい」とあったので、それなら新しい話が書けるのかもしれないと思った。

タイトル「ワシントンのうた」は、小学校高学年の頃、庄野さんが自作した歌のエピソードから名付けられた。

幼年時代の話で興味深いのは、大阪の新聞に掲載された「折れたベーブルースの足」という作文のことである。

この作文のことは、阪田寛夫が何かで書いていたが、どこかで読む方法はないだろうか。

帝塚山学院小学部六年生のとき、<山本君>のところに大阪府立女子専門学校の生徒が、住込みの家庭教師となってやってきた。

庄野さんは、<栗林桂子>というこの女子学生が好きになり、山本君と二人でラブレターを書くが、このときの体験は、後に「恋文」という作品になった。

「恋文」は、1953年(昭和28年)『文芸』に発表された短編小説。芥川賞候補となった。作品集では『愛撫』に収録されている。

幼年時代の思い出はあっという間に過ぎて、予想どおりというか、小説家を目指し始めた頃の話が中心になってくる。

一年のときの上田先生の授業の教科書は、『現代英国随筆選』であった。英国の代表的なエッセイストの作品を集めてあった。日常の何気ないことをとり上げて、一つの文章にするエッセイという形式が私は好きになった。後年、作家となった私が、ストーリイのある小説を好まず、また自分でも書こうとしなかったのは、外語の上田さんのクラスで学んだ英国のエッセイというものが気に入ったからかも知れない。(庄野潤三「ワシントンのうた」)

このあたりの話は、『前途』(1968)や『文学交友録』(1995)だけでなく、多くの随筆でも既に紹介されている。

戦時中、清水にいる兄を訪ねた話は「石垣いちご」という短篇になった。

「石垣いちご」は、1963年(昭和38年)『文学界』に発表された短編小説。作品集では『丘の明り』に収録されている。

女学生の頃にヴァイオリンの稽古をしていた妻の話を聞いて書いたのが、出世作となった「愛撫」(1949)である。

「静物」(1960)は、石神井公園で暮らしている頃、近所にあった釣り堀が舞台となっている。

実際に体験したことや聞いた話が、物語の素材になっていることが、よく分かるだろう。

生活の断片を積み重ねてきた庄野文学

石神井公園時代、吉祥寺の外れの東伏見に住んでいた小沼丹を招いて、「町内会」と称する飲み会を開いた。

小沼の近所にいた吉岡達夫もメンバーだった、この町内会の様子は、『つむぎ唄』という長篇小説で描かれている。

「つむぎ唄」は、1962年(昭和37年)から1963年(昭和38年)にかけて『芸術生活』に連載された長編小説。庄野潤三・小沼丹・吉岡達夫の三人がモデルとして描かれている。

『つむぎ唄』のほか、短篇「秋風と二人の男」(1965)や「鉄の串」(1964)など、小沼丹がモデルとして登場する作品には、良いものが多い。

初期の名作『ザボンの花』も、石神井公園時代の生活を素材としたものである。

私が矢牧、妻が千枝。子供は上が女の子で下が男の子の二人だが、この二人はなつめと四郎。なつめと四郎の上にお兄さんが一人いることにして、これが小学四年生の正三。(庄野潤三「ワシントンのうた」)

庄野さんの小説で、家族が登場するものは、大抵の場合、著者自身がモデルになっている。

もともと私は、外語の英語部のころ、ラムの「エリア随筆」を苦労して辞書を引きながら読んだくらいで、この世で出会ったことをこつこつ書いたものを読むのが好きな人間で、作りごとの話というのは、好まない。苦手というよりも、書きたくない人間であった。(庄野潤三「ワシントンのうた」)

それだけに、庄野さんは、取材(聞き書き)の難しい題材では、かなり苦労したらしい。

「プールサイド小景」(1954)は、実際の話を素材にしてはいるものの、モデルとなった家族に取材したものではないから、家族の会話などは想像で書くしかない。

妻の女学部の同級生でパン屋の職人と結婚した女性の話は「道」(1964)という短篇になっているが、この話を膨らませたいと思っても、女性が不倫していた話を、まさか実際の夫婦に取材するわけにはいかない。

実際の話を素材にするということは、簡単のようでいて、相当に難しい作業だったのだろう。

やがて、庄野一家は神奈川県の生田へと移住して、代表作「夕べの雲」(1965)が生まれる。

本作『ワシントンのうた』は、駆け足で辿った庄野さんの昔話、という味わいがある長編随筆である。

詳しいことを知りたかったら、庄野さんの昔の作品を読めばいい。

生活の断片を積み重ねてきたもの、それが庄野文学というものの本質だったから。

書名:ワシントンのうた
著者:庄野潤三
発行:2007/4/25
出版社:文藝春秋

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ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。