外国文学の世界

ジョアンナ・ラコフ「サリンジャーと過ごした日々」疎外感を抱えた新社会人の自立の物語

ジョアンナ・ラコフ「サリンジャーと過ごした日々」疎外感を抱えた新社会人の自立の物語

ジョアンナ・ラコフ「サリンジャーと過ごした日々」読了。

著者曰く、「これは、サリンジャーとの一年間を描いた実際の物語」だ。

マーガレット・クアリーやシガニー・ウィーヴァーが出演している映画『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』(2021)は、本作『サリンジャーと過ごした日々』が原作。キャッチコピーは<文芸版『プラダを着た悪魔』>だった。

サリンジャーの小説に与えられた勇気

この物語を、感傷的なサリンジャー讃歌と言う人がいるかもしれない。

あるいは、サリンジャーにかぶれたモラトリアムな若者のマスターベーションだという指摘があるかもしれない。

だけど、僕は極めてまっすぐに、この作品は、不安と疎外感を抱えた新社会人が、サリンジャーを通して自我を獲得していくという、自立の物語として読みたいと思った。

舞台は、1996年(平成8年)のニューヨーク。

大学を卒業したばかりの<ジョアンナ>は、老舗の出版エージェンシーで編集アシスタントとして就職する。

そこは、かつてフィッツジェラルドを担当し、今なおサリンジャーを担当している、歴史あるエージェンシーだったが、作家志望の彼女は、理想と現実との大きなギャップの中で焦燥感を募らせていく。

映画に登場する出版エージェンシーのモデルとなった会社は、1929年(昭和4年)創業の<ハロルド・オーバー・アソシエイツ>。

やがて、出版社から転送されてきたサリンジャー宛ての手紙に対して、ルーティーンな返事を書く仕事を任された彼女は、サリンジャーに強い共感を寄せる人々の心に関心を抱くようになる。

特に彼女の心に強く印象付けられたのは、ウィンストン・セイレム(ノースカロライナ州の都市)の少年からの手紙だった。

それは、ホールデンのことを考えるのは、すごく感情的になってるときだからだと思います。ぼくには静かな感情があるんです……人はふつう、誰がなにを考えてるのかも、どんなふうに感じてるのかも、どうでもいいって思ってます。(ジョアンナ・ラコフ「サリンジャーと過ごした日々」井上里・訳)

物語の中で、彼女は、この手紙を何度も反芻する。

何度も何度も。

そして、行き場のなくなった彼女がしたことは、サリンジャーの小説を読むことだった。

『フラニーとズーイ』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア─序章─』『ナイン・ストーリーズ』、そして『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。

サリンジャーを読み終えた後、明らかに彼女は自立への道を探り始める。

サリンジャーはずっとサリンジャーだったわけではないのだ。かつては彼も、デスクに向かって悩んでいた。なにが物語を作るのか、どのように小説を構成すればいいのか、作家として存在するためにはどうすればいいのか。あるいは、生きるためにはどうすればいいのか。(ジョアンナ・ラコフ「サリンジャーと過ごした日々」井上里・訳)

サリンジャーの小説に勇気を与えられた彼女は、自分の道を歩き始めていた。

日本語訳と原作小説の内容が完璧にマッチしている

はじめに書いておきたいことは、まるで詩のように静かで透明感のある文章が良い、ということ。

サリンジャーは気取り屋ではなかった。彼の作品は懐古的ではなかった。おとぎ話でもなく、古き良きニューヨークを神童たちがあてどなくさまよう話でもなかった。サリンジャーは、わたしが思っていたような作家ではなかった。まるでちがっていた。サリンジャーは残酷だ。残酷で、ユーモアがあって、正確だ。わたしはサリンジャーが大好きだった。彼の作品のすべてが大好きだった。(ジョアンナ・ラコフ「サリンジャーと過ごした日々」井上里・訳)

日本語がリズミカルに、豊かな感情を湛えて、物語を支えている。

日本語の翻訳と原作小説の内容が、完璧なまでにマッチしているのだ。

この翻訳でなければ、この小説に、ここまで感動できただろうか。

そして、サリンジャーへの強い共感は、この物語を、ひとつのサリンジャー論として、十分に通用するだけの深い示唆に富んだものとしている。

中学生の頃サリンジャーの作品に出会っていたら、自分はどんなふうに読んだだろう。だが、サリンジャーに出会ったとき、すでにわたしは大人だった。あるいはフラニーのように、子供時代から抜け出そうとしている最中だった。世界で生きていくにはこうあるべきだという規範から抜け出そうとしていた。そして、それゆえに、年を重ねるたびに──サリンジャーを読み直すたびに──彼の物語と彼の描く人物は変化し、深みを増していった。(ジョアンナ・ラコフ「サリンジャーと過ごした日々」井上里・訳)

サリンジャーを読破した後、ジョアンヌは、恐ろしいまでにサリンジャーへ傾倒していく。

『サリンジャーと過ごした日々』というタイトルに込められているのは、サリンジャーの作品が彼女の心に寄り添ってくれていた日々、と読み替えてもいいだろう。

まだ、サリンジャーを読んだことがないという人は、先に、この作品から読んでみてもいいかもしれない。

サリンジャーの作品が、どのような作品なのかということを、この小説はちゃんと教えてくれるから。

書名:サリンジャーと過ごした日々
著者:ジョアンナ・ラコフ
訳者:井上里
発行:2015/4/10
出版社:柏書房

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庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。庄野潤三さんの作品を中心に、読書の沼をゆるゆると楽しんでいます。