日本文学の世界

瀧井孝作「伐り禿山」ヤマメ釣りで見た貧しい寒村の暮らし

瀧井孝作「伐り禿山」あらすじと感想と考察

瀧井孝作「伐り禿山」読了。

本作「伐り禿山」は、1950年(昭和25年)1月『改造文藝』に発表された短編小説である。

この年、著者は56歳だった。

作品集としては、1975年(昭和50年)6月に大和書房から刊行された自選短篇集『山茶花』に収録されている。

伐り禿山で生きる人たちの貧しい暮らし

本作「伐り禿山」は、一義的には釣り紀行の物語と言っていい。

四月二十八日、<私>は近所の釣竿屋に誘われて、檜原村の南秋川谷へヤマメ釣りに出かける。

檜原村は東京都内の西多摩郡にある村。八王子市やあきる野市と隣接している。

五日市からバスに乗って、終点で降りた二人は、山の中で釣り始めるが、なかなか釣れない。

あまり釣れないので、釣竿屋は、路傍の農家で木炭を買ったりしている。

路傍の芝小屋で雨宿りしながら、弁当を食べたりしているうちに、<私>は、釣竿屋の案内で、今夜の宿へと向かう。

そこは、正式の宿屋ではなくて、元は山稼ぎをしていたらしい一軒の農家だった。

釣竿屋は、何度もここに泊まっているらしく、不意の来客を農家の家族は迎え入れてくれるが、<私>にとって、そこは決して居心地の良い宿とは言えなかった。

私と釣竿屋とは、その鍋から、手盛で食べた。味噌汁も、調味(だし)がなく青菜のあくが出て、うすぐろくて、それでも幾分空腹(すきばら)でたべられた。茲の人たちは、いろりの向側で、黒いような冷めしを食べていた。(瀧井孝作「伐り禿山」)

昭和20代前半といえば、それでなくても、日本中が貧困に喘いでいた時代である。

この伐り禿山で生きる人たちの貧しい暮らしに、<私>は何を感じていただろうか。

家を出るとき、<私>はお礼を置いていく。

私は茲に一泊して、山家の山に木もなくいまは炭焼も止めた、さびしいすがたが分った。別れて発つ時、礼のしるしに、紙幣入れから三枚ばかり抜出し、小さく折って「みやげも何も持ってこなかった、礼のしるしです」と、出した。(瀧井孝作「伐り禿山」)

同行の釣竿屋は、後で「あんなに金をやらんでもよいが」「あんなにやると、これからくせになる」と不機嫌に言うが、ここのやり取りが、この静かな小説で、ひとつのクライマックスになっていると言えるだろう。

釣り人の目を通して描かれる寒村のスケッチ

釣りを続けるという釣竿屋と別れて、<私>は峠を越えて帰路に向かう。

九時頃、私は、茲で別れて峠越して帰ることにした。釣竿屋は水上ミの数馬の方まで行くと云った。釣れる釣れないに拘らず一人で行くすがたは、恰も求道者にも似ていた──。(瀧井孝作「伐り禿山」)

「釣れる釣れないに拘らず一人で行くすがたは、恰も求道者にも似ていた」とあるのは、釣り文学に残る、一つの名言だろう。

やがて、峠を越えて、<私>は上野原に出る。

伐り禿山と違って、そこは、大きな工場の煙突も見える豊かな町だった。

寒村に生れる者と、ゆたかな町に生れる者と、不公平のようだが、これも自然のすがたなのだと思われた。上野原は人気のよくない所と聞いていたが、広々した耕作地を控えながら、大きい製糸工場メリヤス工場など物資も製造出来ながら、やはり浮世の風波は吹荒れるのだと思われた。(瀧井孝作「伐り禿山」)

釣りに出かけた先で、貧しい寒村と栄えつつある町との明暗に、<私>は人の運命を感じている。

「不公平のようだが、これも自然のすがたなのだと思われた」とあるのが、この小説を感傷的なだけの作品にしていない。

何故なら、一人の釣り人である<私>もまた、吹き荒れる浮世の風波に曝されている、一人の人間にすぎないからだ。

釣り人の目を通して描かれる寒村のスケッチが、この作品の見所だろう。

派手なドラマが描かれていなくても、こういう作品から伝わってくるものは多い。

それが、私小説の醍醐味というやつなのだ。

作品名:伐り禿山
著者:瀧井孝作
書名:山茶花 自選短篇十種
発行:1975/06/10
出版社:大和書房

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やまはな文庫
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