日本文学の世界

井伏鱒二「多甚古村」貧しい庶民の暮らしを描くおまわりさんの駐在日記

井伏鱒二「多甚古村(たじんこむら)」読了。

本作「多甚古村」は、1939年(昭和14年)2月から7月にかけて断続的に『文体』『改造』『文学界』の各誌に発表された長編小説である。

最初の作品が発表された年、著者は41歳だった。

作品集としては、1939年(昭和14年)7月に河出書房から刊行された『駐在日誌 多甚古村』に収録されている。

また、続編である「多甚古村補遺」は、1940年(昭和15年)1月『モダン日本』と3月『公論』に発表された。

「多甚古村補遺」は、当初「多甚古村」として、1940年(昭和15年)5月に河出書房から刊行された『鸚鵡』に収録されていたが、1942年9月に改造社から刊行された『井伏鱒二集』収録の際「多甚古村補遺」に解題された。

今回は「多甚古村」「多甚古村補遺」を通して便宜的に「多甚古村」と称することとした。

戦争中に記された甲田巡査の駐在日記

本作「多甚古村」は、多甚古村の駐在所に駐在する三十歳前後の巡査<甲田雅一郎>の「駐在日記」という形を取った長編小説である。

多甚古村は田舎の小さな村だが、戦時中という世相が影響しているのか、実にいろいろな事件が起こる。

甲田巡査は、この村で起きた事件を丁寧に記録しているが、人生の様々な場面で起こり得る事件が、この物語には描かれていると言えるだろう。

例えば、貧民長屋に一人で侘住いしていた<オキヌ婆さん>は、身の上に絶望し、首をくくって自殺してしまう。

部長さんは私に「君、おろしたまえ」と云われたので、私が婆さんをおろす役になった。背伸びをして婆さんを抱き、固くなった身体を差上げて紐からはずし、そうして村会議員が北枕にのべた蒲団の上に婆さんを寝かせると、村議は部長さんにきこえないように「死人をいらうのは、あまりよい気持ではないだろう」と同情してくれた。(井伏鱒二「多甚古村」)

上司の命令だから逆らえないが、いくら警察官だって自殺したお婆さんの死体を抱きかかえて移動させるのは嫌に決まっている。

絶望のあまりに死んだ人の周りで、命令する人や命令に従う人、同情してくれる人などが描かれていて、人生というのは深いなあと思う。

都会から療養にやってきた若い女性<マサコさん>が、村の人々に迫害される話も、排他的な村社会の闇を見るようで怖い。

ところが松原の附近の人たちは、彼女のお父さんのことを彼女の旦那だといい出した。はじめその流言を放ったのは、松原に茶店を出している高島屋のおかみだという。現に、そのおかみは先日も私に向って、「えたいの知れぬ、東京かぶれのした混血児や。何やらわからん」と云ったのだった。(井伏鱒二「多甚古村」)

美しい都会の女性に、田舎の男たちは心奪われてしまい、嫉妬した女たちが、都会の女性を迫害していく過程が、そこには描かれている。

貧しい暮らしを笑いに変える

本作「多甚古村」で描かれているのは、村の人々を主人公とした人間同士の交流である。

それは、もちろん、庶民によって構成された人間社会の縮図でもあるだろう。

著者は、小さいけれども多くのいざこざによって成立している庶民の暮らしを、温かい眼差しをもって描き出している。

犯人を連行するには一列に歩かせた。沿道の子供たちが後からついて来て「バクチだ、バクチだ」「やあい、やあい」と嘲笑し、大人たちまで往来に駆けだしてきて、なかには分別ありそうなのが「敗残兵のようだなあ」などと云っていた。(井伏鱒二「多甚古村」)

賭博の現場を差し押さえられた犯人たちは、まるで敗残兵のように連行されていく。

それは深刻な現場には違いないけれど、子供たちの「バクチだ、バクチだ」「やあい、やあい」といった囃子声が、なぜか事件をユーモラスなものに仕立ててしまう。

田舎の巡査は、家庭問題に巻き込まれることも当たり前で、海苔で儲けた金で遊郭へ行くと言い張る夫を止めてくれと、おかみさんから頼まれたりする。

飲んべえは実に小心な男だが、酒が好きで女が好きで仕事が嫌いなのである。家には何の家具もなく、商売は魚屋をしているが穢いのでちっとも売れず、このごろでは仲仕をしたり海苔の運搬人をしたりして酒手を稼いでいる。(井伏鱒二「多甚古村」)

下層階級の貧しい生活を描いているのに、ちっとも深刻な感じがしない。

むしろ、どこか滑稽であって、くすくすと笑わせられてしまうところがある。

これは、つまり、著者の庶民に対する愛情だろう。

庶民を評するのではなく、庶民と同じ目線で描いているから、貧しい暮らしを笑いに変えることができる。

見方を変えると、井伏鱒二の小説を愛する人は、庶民の暮らしを愛する人だと言うことができるのかもしれない。

作品名:多甚古村
著者:井伏鱒二
書名:井伏鱒二自選全集(第三巻)
発行:1985/12/20
出版社:新潮社

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