小沼丹「枯葉」読了。
本作「枯葉」は、1977年(昭和52年)1月『文藝』に発表された短編小説である。
この年、著者は59歳だった。
作品集としては、1978年(昭和53年)6月に講談社から刊行された『木菟燈籠』に収録されている。
亡くなった人たちを懐かしく偲ぶ
本作「枯葉」は、亡くなった人たちを懐かしく偲んだ物語である。
小説というよりも、ほとんど随想と言っていい作品だろう。
この年、小沼さんは59歳になる年だったが、59歳ともなると、古くからの知人(もちろん年上の人たち)が次々と亡くなっていく年齢なのかもしれない。
植木屋の親爺が「──今年はちょっと参りました。何しろ、葬式を三つ出しましたからね……」とつぶやくところから物語は始まる。
親爺の話が終わらないうちに電話が鳴り、家の者が「──某さんのお父さんが亡くなったんですって……」と告げる。
植木屋の話から、著者は、昔、清水町先生(井伏鱒二)らと一緒に旅をしたときのことを思い出す。
或る晩、先生と酒を飲んでいたら、先生がよっちゃんが死んだと云われた。その前后の話も聞いたと思うがよく憶えていない。「──いい人でしたね…」「──うん、よ過ぎたんだ…」一体、あれは何年前になるかしらん?(小沼丹「枯葉」)
ここでも人が死んだ話である。
<よっちゃん>は、甲府の宿屋の女中で、清水町先生とは昵懇の付き合いだったらしい。
話は植木屋の話に戻り、この親爺を紹介してくれたのも、長年通っていた植木屋の爺さんだったことを、著者は懐かしく思い出す。
二十何年通った得意先を譲り渡すとき、爺さんはどんな心境だっただろうか。
そして、物語は、著者が散歩に出かける場面で締めくくりを迎える。
好い天気で、ひんやりした秋風が吹く。そんな秋風に吹かれて歩いていると、遠い昔が甦る気がする。遠い昔が甦って、さらさらと通り過ぎて行く。(小沼丹「枯葉」)
秋風というのは、懐かしい人たちを思い出させるものなのだろうか。
この作品は、亡くなった人たちが主人公の物語でもあるのだ。
ちょっと都会的でクールなセンス
この物語のクライマックスは、最後の一文にある。
その先の家のブロック塀の上から、何の木か判らないが裸の枝を伸していて、そこに一枚枯葉が残って風に揺れている。その枯葉を見たら、何か想い出すような気がしたが、よく判らないからその儘歩いて行った。(小沼丹「枯葉」)
小沼さんの小説では、最後にちょっと肩透かしを食わせる格好の作品が多いような気がする。
「よく判らないからその儘歩いて行った」というのがそれで、この辺にちょっと都会的でクールなセンスがあって、物語が感傷的になりすぎるのを防いでいる。
おそらく、この小説は、「何か想い出すような気がしたが、よく判らないからその儘歩いて行った」という最後の一文から始まっているのではないだろうか。
印象的なのは「枯葉」という作品名である。
枯葉は「その枯葉を見たら、何か想い出すような気がしたが、よく判らないからその儘歩いて行った」という最後の一文に登場する言葉である。
物語全体としては、特に枯葉が関わる場面はなく、最後の散歩の場面で、著者は秋風を感じながら、枯葉を眺めているだけだ。
枯葉には、亡くなった人たちを思い出す懐旧の象徴があるわけで、こうしたタイトルの選び方は、永井龍男の作品に見られる手法だと思った。
考えてみると、小説のテーマといい、この作品には、永井龍男に通じるものが多くあるような気がする。
もっとも、作品としては、完成された小沼調で綴られているから、小沼丹の作品以外ではありえないことは間違いないだろう。
秋に読みたい小説が、またひとつ増えたような気がした。
作品名:枯葉
著者:小沼丹
書名:木菟燈籠
発行:2016/12/09
出版社:講談社文芸文庫