村上春樹の世界

村上春樹「氷男」過去から逃れられない女性の孤独

村上春樹「氷男」あらすじと感想と考察

村上春樹「氷男」読了。

本作「氷男」は、1991年(平成3年)4月『文學界』臨時増刊『村上春樹ブック』に発表された短編小説である。

この年、著者は42歳だった。

作品集としては、1996年(平成8年)11月に文藝春秋から刊行された『レキシントンの幽霊』に収録されている。

国語教科書『探求 文学国語』(桐原書店)に採用された。

強固な過去性こそが、氷男最大のアイデンティティ

<氷男>は、封印された過去の象徴的存在である。

僕は、この物語を、そのようにして読んだ。

強固な過去性こそが、氷男最大のアイデンティティである。

未来は見えませんと氷男は無表情に言った。そしてゆっくりと首を振った。私は未来というものにまったく興味が持てないんです。正確に言えば、私には未来という概念はないんです。氷には未来というものはないからです。そこにはただ過去がしっかりと封じこめられているだけです。(村上春樹「氷男」)

この作品は、未来という概念を持たない<氷男>に恋をした女性の物語である。

それは、彼女自身が、既に未来志向を持たない女性であるということを示唆している。

氷男との結婚に、家族は反対するが、彼女は周囲の反対を押し切って氷男と結
婚する。

彼女は、氷男(つまり強固な過去性)を愛していたのだ。

しかし、未来という概念を持たない氷男との生活に、もちろん将来はない。

現状を打破しようと、彼女は氷男と一緒に南極へ旅行に出かけるが、氷男の過去性は、ここで決定的に絶対的なものとなってしまう。

そして私にはわかっていた。私たちの新しい一家が南極の外に出ることはもう二度とないのだということを。永遠の過去が、その途方もない重みが、私たちの足をしっかりと捉えていた。(村上春樹「氷男」)

南極は「永遠の過去」を可視化した世界である。

彼女は永遠に、その過去から逃れることはできないのだ。

過去しか愛することのできない女性

この小説を読んだとき、最初に思ったことは、過去にとらわれ続けながら生きることの悲しさである。

本作「氷男」に登場する女性<私>が、一体どのような過去にとらわれていたのか、それは分からない。

過去はあくまでも抽象的であり、過去を象徴化した存在の「氷男」もまた、抽象的概念に過ぎないからだ。

しかし、彼女が過去に縛られ、その過去から逃れ得なかったことは、彼女が南極に閉じ込められてしまったという物語の結末からも推察することができる。

人は、過去の思い出だけでは、生きていくことができない。

しかし、彼女は絶対的過去である氷男と一緒に暮らしていくことを決意した。

彼女は、過去しか愛することのできない女になっていたのだ。

私には意識がある。でも指一本動かすことができない。それはひどく変な気持ちだ。自分が一刻一刻過去と化していくのがわかる。私には未来というものがない。ただただ過去を積み重ねていくだけなのだ。(村上春樹「氷男」)

おそらく、南極は、空虚な世界の象徴だろう。

未来のない暮らしには、空虚な世界が広がっているだけであり、その空虚な世界に、彼女は閉じ込められてしまったのである。

この短編小説は、彼女と氷男が、南極に取り残されたところで終わってしまうが、もしかすると、この物語には「続き」があるのではないだろうか。

それは、過去から解放されて、未来へと走り始める彼女の「新しい物語」だ。

「氷男」は徹底的に悲しくて救いのない物語だけど、作品には書かれていない「その続き」まで含めて、僕はこの小説を「希望のある小説」として受け止めたいと思う。

過去から解き放たれたときこそ、人は、本当の成長を遂げることができるのだから。

作品名:氷男
著者:村上春樹
書名:レキシントンの幽霊
発行:1996/11/30
出版社:文藝春秋

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。