庄野潤三の世界

庄野潤三「ザボンの花」はかない人生と生きている喜びを描く微笑ましい家族物語

庄野潤三「ザボンの花」あらすじと感想と考察

庄野潤三「ザボンの花」読了。

本作「ザボンの花」は、1955年(昭和30年)4月から8月まで日本経済新聞に連載された長篇小説である。

この年、庄野さんは34歳だった。

単行本は、1956年(昭和31年)7月に近代生活社から刊行されている。

生きている喜びを描く

庄野潤三『メジロの来る庭』に『ザボンの花』が登場している。

これは昔、芥川賞を受賞したあと、日本経済新聞からたのまれて、はじめて書いた新聞小説である。私たち一家が会社の転勤で大阪から東京へ引越し、石神井公園の麦畑のそばの家で暮すようになった最初のころの生活を描いたもの。父親の矢牧というのが私のことで、妻との間にまだ小さななつめと四郎のふたりの子供がいる。このなつめと四郎が活躍する。(庄野潤三「メジロの来る庭」)

正確に言うと、『ザボンの花』では、父親である矢牧のほかに、母親である千枝、長男・正三(小学四年生)、長女・なつめ(小学二年生)、次男・四郎(あと二年しないと幼稚園へ行けない)という五人家族が登場する。

ちなみに、朝日放送大阪本社に勤務していた庄野さんが東京支社へ転勤となり、「東京都練馬区南田中町453番地」へ移転したのは1953年(昭和28年)9月のことで、長女・夏子は6歳、長男の龍也が2歳になる年だった。

だから、『ザボンの花』に登場するなつめは夏子のことで、四郎は龍也がモデルになっている(当時の庄野家は、まだ四人家族だった)。

物語の主軸に据えられているのは、妻であり母親の千枝である。

父親の矢牧はサラリーマンだから、平日の昼間は家にいない。

子どもたちの日常は、母親である千枝の目を通して語られていく。

と言っても、特別のドラマが起こることはなく、ごく普通の一家の、ごく普通の生活が、微笑ましいエピソードとともに綴られていく。

正三が主人公となっている「第一章 ひばり」は、長く国語の教科書に掲載されていた作品だから、『ザボンの花』を知らなくても「ひばり」という小説を知っているという人は多いかもしれない。

いじめっこと思しい見知らぬ少年が、ひばりの子に石を投げているのを見て、正三が憤慨する物語である。

それは、まるでひばりの子が、空から、地面のどこかで見てくれている親に向って、「お父さん、お母さん、もうこのくらい飛べば、及第でしょう。ぼくは、もう死にそうだ。ほら、降りますよ」と声をかけて、それを言い終らないうちに、すとーんと空から落ちたような具合であった。(庄野潤三「ザボンの花」)

勇敢な正三の行動の背景として、正義感の強い両親の影響を読み取ることができるが、物語の素材が、麦畑の中のひばりの子というところが、いかにものんびりしている。

こののんびりとした雰囲気こそ、『ザボンの花』という作品全体を覆っているトーンであり、まるでゆったりとした時間が流れていくような安らぎが、この物語にはある。

子どもたちには、隣人・村田さんの子であるユキ子ちゃんやタカ子ちゃんという遊び友だちがいて、千枝もまた、ユキ子ちゃんのお母さんと仲良しである。

休みの日には、村田さん一家が、矢牧の家まで遊びに来ることもある。

矢牧家と村田家の子どもたちが、この長篇小説を動かしていく推進力(いわゆる舞台回し)となっているが、特に力を入れて描かれているものは、大阪で暮らしている矢牧の家族や、死んだ家族など、身内の人々の思い出である。

例えば、「第六章 音楽会」に、大阪にいる矢牧の兄が植えてくれたライラックの樹が登場する。

夫は門の横にあるライラックが、小さい、うす紫いろの花を細い枝の先につけているのを見ていた。このライラックは、去年の四月に、大阪にいる矢牧の兄が上京した時、記念に買って植えてくれたものだ。(庄野潤三「ザボンの花」)

「第八章 はちみつ」で詳しく語られる龍二兄さんのモデルとなっているのは、夫婦の晩年シリーズに登場する「英二伯父ちゃんの薔薇」でお馴染み、児童文学者・庄野英二である。

龍二兄さんは、いつも王者の精神を心に持てといっている。それはどういうことかというと、人間が貧乏くさく見えるのは、お金がないからではなく、その人の精神が貧乏くさいからだというのだ。(庄野潤三「ザボンの花」)

物語の後半に行くほど、大阪で暮らしている家族の話が多くなるような気がするのは、夏休みの帰省で、物語の舞台が大阪へ移ったということも影響しているのだろう。

いとこのあけみちゃんとはるみちゃんは、死んだ長兄の子どもたちで、『野鴨』では民子と智子として登場している。

死んだ長兄と龍二兄さんに続いて、実家の母親が登場する。

この母は、プラタナスや父よりも長く生きて来た人だ。矢牧は、自分が育って来たこの古い家の中で、なくなった昔と、新しい生命をながめる。すると、矢牧の心にはかすかな悲しみが生ずる。それは、いったい何の悲しみだろう?(庄野潤三「ザボンの花」)

矢牧の心に生じた「かすかな悲しみ」は、自分という存在のはかなさだ。

それは、人間という存在のはかなさでもある。

大阪で暮らしている矢牧一族が出てくるようになると、いよいよこの小説も、矢牧一族の物語という印象が強くなってくるが、こうした一族の人々と共有しているものこそが、東京で暮らす矢牧一家の大きなバックボーンとなっていることは言うまでもない。

そして、その中心的な柱となっているのが、死んだ父親の思い出である。

「昔、このあたりにいたわしの親しい人は、みんな死んでしもうた。露木さんも、中谷さんも、浜田さんも。道を歩いても、さびしい」父がそういった。その顔は悲しげに曇って来た。「お父さん、そんなことを思ったらだめですよ。そんなこと、いわないで下さい」矢牧は父に向ってそういった。(庄野潤三「ザボンの花」)

夢の中に現われた父親や長兄は、現実世界では既に亡き人となっている。

親しい人々を失った寂しさに、読者は共感することができる。

こうした寂しさは、生きていて、なお、死を考える、人間の悲しさへと繋がっていく。

いずれは、おれもあの墓の下に入るんだな。そして、横に立てた石の表面に、父や兄などの名前のとなりにおれの名前も彫り込まれるんだな。そうすると、誰かがやって来て、やっぱりこんな夏の夕方に、おれの墓石の上からバケツの水を注ぐんだな。(庄野潤三「ザボンの花」)

生命のはかなさは、裏返すと、生きていることの喜びということになる。

つまり、本作『ザボンの花』は、生きていることの喜びを描いた小説だったということだ。

当たり前の暮らしを描いているようで、『ザボンの花』は深い。

この深いところに、庄野文学の魅力というものがあるんだろうなあ。

静かなる人生讃歌

人は、毎日の営みの中で、自分だけの哲学を発見するものだ。

浮き沈みがあったというわけではなく、一日一日は全く同じことの繰返しのように思われた、変化のない暮しであったのに、こうして振り返って見ると、海の表面の色があるところでは水色に、あるところでは藍色に、またあるところではもっと違った色に見えるのに似ていた。(庄野潤三「ザボンの花」)

「全く同じことの繰返しのように思われた、変化のない暮し」の中に小さな変化を見つけて、その小さな喜びや小さな寂しさを描いてきたのが、つまり、庄野文学だった。

変化のない暮らしの中にこそ、庄野さんの関心があったわけで、激動のドラマを描くよりも、それはずっと困難で、高い技術力を求められる仕事であっただろう。

庄野潤三という作家が、何を書きたかったのかということが、『ザボンの花』の、この何気ない文章の中に表現されているような気がする。

この長篇小説のクライマックスは、矢牧一家が夏休みで帰省する「第十五章 花火」にある。

『ザボンの花』は、「第十六章 夏の終り」で完結しているから、「第十五章 花火」は、静かなエンディングの前の、最後の盛り上がりだ。

矢牧はバケツの中の水を汲んで、まだ新しい、なめらかな光沢をもった墓石の上に注ぎかけた。すると、墓石の頂きの部分にたまった水が、夕べの空の色を映して、かがやいた。そこには、雲のかたちも映っているのであった。(庄野潤三「ザボンの花」)

墓石の上に溜まった水が空を映すところは、後の短篇小説「蒼天」(『丘の明り』所収)のテーマにもなった、重要なモチーフである。

「墓石の頂きの部分にたまった水」は、生と死の狭間にある境界線として、庄野さんには見えていたのではないだろうか。

懐かしいプラタナスの思い出も、矢牧にとっては、生と死を意識させるアイテムとなる。

なつかしいプラタナスの木は、それを植えた矢牧の父とともに、この家から姿を消してしまった。そして、いま家の中を声を上げて走りまわっているのは、戦争が終ったあとで生れて来た子供たちだ。矢牧は、なくなった昔と、この小さい子らとのちょうど真中に立っているのだ。(庄野潤三「ザボンの花」)

「矢牧は、なくなった昔と、この小さい子らとのちょうど真中に立っている」というところに、境界線を意識する主人公の(つまりは作者の)人生観が表現されていると言っていい。

ちなみに「戦後にビニールの表紙のアメリカのポケット叢書で父が見つけ出し、ひいきにしていたデエモン・ラニヨンの短篇集」とあるのは、後の長編随筆『エイヴォン記』の連載第一回「ブッチの子守唄」で紹介されているデイモン・ラニアンのことだ。

もっとも、庄野さんがデイモン・ラニアンを読むようになるのは、1980年代になって新潮文庫版の『ブロードウェイの天使』を買ってからのことになるのだが。

最終章「第十六章 夏の終り」で、なつめとユキ子の二人は「ゆりかごの唄」を歌う。

「ゆりかごのつなを 木ねずみがゆするよ」という、その歌は、1921年(大正10年)に『女学生』に発表された北原白秋の作品である(草川信が作曲)。

次に二人が歌った「若草もゆるおかのみち、心もはずむ身もはずむ」という唱歌は、昭和22年に作られた「散歩」(唱歌「散歩唱歌」を改作したもの)で、いずれも現代では、聴かれることも少なくなった、懐かしい唱歌である。

そして、作品タイトルにもなった「ザボンの花」は、北原白秋が詩を書いた「南の風の」という唱歌に登場する言葉だ。

千枝は自分もうたいたくなった。子供の時に家にあったピンク色のセルロイドのレコードに入っていた童謡だ。ピエロや踊っている人形の影絵をかいた盤で、「ザボンの花の咲くころは、空にはきれいな天の川」というのが、いちばんはじめの歌詞であった。(庄野潤三「ザボンの花」)

1921(大正10年)8月『赤い鳥』に発表された「南の風の」は、「ゆりかごの唄」と同じく、草野信が作曲をしている。

おそらく、現代ではほとんど聴くことのできない童謡だと思われるが、千枝が(つまり庄野千壽子夫人が)子どもだった時代には(大正末期から昭和初期)、この曲も、新しい時代の童謡として、子どもたちから親しまれていたのだろう(ちなみに、大正10年は庄野さんが生まれた年である)。

人生のはかなさと生きている喜び。

その生きている喜びが「南の風の」という童謡に象徴されている。

「ザボンの花」は、「南の風の」を、さらに象徴的にイメージ化した言葉だと言える。

我々の毎日は、変化のないように見えて、小さな変化が連続する毎日である。

その毎日は、決して永遠ではないけれど、生きているかぎりは、生きている喜びを感じていたい。

つまり、静かなる人生讃歌というのが、この物語の本質なのではないだろうか。

庄野潤三の盟友・小沼丹は、次のように書いている。

三十代にしか書けない小説がある。四十代には四十代の小説がある。「ザボンの花」は三十代の庄野が見た「ある家庭の生活」である。(小沼丹「夕べの雲」解説)

生田の丘の上で暮し始めたばかりの頃の庄野家を描いた小説が『夕べの雲』なら、『ザボンの花』は、石神井公園の麦畑の中で暮らし始めたばかりの頃の庄野家を描いた小説である。

どちらも、日本経済新聞に連載された新聞連載小説だったというところも面白いが、いずれにしても、『ザボンの花』と『夕べの雲』は、庄野潤三の原点となった作品と言える。

この作品を読まずして、庄野文学を語ることはできないだろう。

なお、『ザボンの花』は、繰返し出版されているので、別に紹介しておきたい。

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書名:ザボンの花
著者:庄野潤三
発行:2014/04/10
出版社:講談社文芸文庫

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やまはな文庫
アンチトレンドな文学マニア。出版社編集部、進学塾講師(国語担当)などの経験あり。推しは、庄野潤三と小沼丹、村上春樹、サリンジャーなど。ゴシップ大好き。