日本文学の世界

小沼丹「福寿草」思い出の中で生きた作家が描く懐かしき過去の日々

小沼丹「福寿草」あらすじと感想と考察

小沼丹「福寿草」読了。

本作「福寿草」は、1998年(平成10年)1月に刊行された随筆集である。

著者は、1996年(平成8年)11月に78歳で他界している。

仲間の追悼文に優れたものが多かった

小沼丹は、数多くの随筆を書いたが、生前に刊行された随筆集は、『小さな手袋』(1976年)と『珈琲挽き』(1994年)の2冊だけだった。

本作『福寿草』は、著者の没後に刊行された、3冊目の随筆集である。

なお、2018年(平成30年)には生誕百年記念として幻戯書房から、『ミス・ダニエルズの追想』と『井伏さんの将棋』が刊行されて、小沼丹の随筆集は、全部で計5冊となった。

庄野潤三の『鳥の水浴び』に『福寿草』のことが出てくる。

1998年(平成10年)5月17日、リーガル・ロイヤルホテルで、小沼丹を偲ぶ会が開催された。

今度、みすず書房で『福寿草』という立派な本を作って頂いて、われわれ大変よろこんで居ります。『福寿草』の前に『珈琲挽き』が出たとき、同じホテルの同じ部屋でお祝いの会があり、そのときは小沼が元気に挨拶したのを思い出しますと、先ず申し上げてから、その『珈琲挽き』をときどき本棚から出して読む。陽がさし込む椅子で小沼の随筆を読むと極楽という気持がします、その中でも私が好きなのは「落し物」ですといって、その「落し物」の話をする。(庄野潤三「福寿草」)

この会の世話役は、みすず書房の高松さんだったから、『福寿草』の出版記念会としての意味もあったのだろう。

「小沼丹を偲ぶ会」には、小沼丹夫人や井伏鱒二夫人のほか、吉岡達夫、阪田寛夫、大島一彦、巌谷大四、倉橋健などが出席していた(庄野さんは夫婦で出席)。

『福寿草』には、これまでの随筆集には収録されなかった書評類が、多く収録されている。

最も多いのが庄野潤三の作品で、『つむぎ唄』『自分の羽根』『紺野機業場』『クロッカスの花』『夕べの雲』『野鴨』『イソップとひよどり』『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』と並ぶ。

庄野の作品を見ると、その底に詩がある。庄野の作品に気品を持たせているのは、この詩心である。をかしみも、この詩心から生まれるものであり、それは詩と同義語と受取れる場合も尠くない。(小沼丹「『夕べの雲』(庄野潤三)解説」)

庄野文学に対する、小沼さんの批評には、長年、近い場所から作家を見てきた仲間らしい作品理解がある。

井伏鱒二の作品に関する書評も多くて『くるみが丘』『黒い雨』『荻窪風土記』『白鳥の歌・貝の音』『かきつばた・無心状』が収録されている。

友人の吉岡達夫と二人で、清水町の井伏さんのお宅を訪れたときの話が、『かきつばた・無心状』の解説に出てくる(新潮文庫の巻末に収録されているもの)。

先生はたいへん好い御機嫌で、われわれを見ると、「──ああ、よく来たね、実は……」と言葉を切って、「──君たちが来たら、君達にやろうと思っていたものがあるんだ」と云われた。吉岡は気の早い男である。「──何ですか?」早速、吉岡が質問した。(小沼丹「『かきつばた・無心状』(井伏鱒二)解説」)

このとき、二人がもらったものは、太宰治が井伏鱒二に宛てて書いた手紙だった。

小沼さんの随筆には、井伏鱒二に関するものが多くて、冒頭「片栗の花」も、井伏鱒二と旅をしたときの思い出話だ。

随分昔のことになるが、伊馬さんが発起人、兼案内役になって東北旅行に出かけたことがある。同行者は井伏さん、横田さん、それに小生の三人で、古い備忘録を引張り出して見ると四月中旬に出かけたことになっている。(小沼丹「片栗の花」)

このときの一行は、白石駅から宿の車で移動して、小原温泉のホテル鎌倉に宿泊している。

井伏さんからもらった釣り竿を使って、小沼さんが初めて釣りをしたのは、この旅行のときのことだし、井伏鱒二が名作「還暦の鯉」を書いたのも、このときの旅行が素材となっている。

「千切れ雲」は、井伏鱒二や浅見淵、木山捷平、村上菊一郎、吉岡達夫などが参加していた、谷崎精二の会、通称「竹の会」の思い出を書いたもので、島村利正にスポットを当てた作品だ。

島村さんとは会でよく一緒になった。島村さんは尠し遅れて「竹の会」に入り、それから「侘助の会」の会員でもあったから、この二つの会でよく顔を合せた。「侘助の会」と云うのは、井伏さんと親しい連中が井伏さんを囲んで愉快に酒を飲む会で、幹事と云うか世話人は会員の持回りになっていた。(小沼丹「千切れ雲」)

亡き文学仲間に送る、良い追悼文となっている。

小沼丹は、仲間の追悼文を書く技に秀でていたような気がする。

「右と左」は、臼井吉見への追悼文として書かれたもの。

その頃、吉見君は或る出版社に勤めていて、その仕事のことで知合った。知合ってから間も無く吉見君が碁を打つことが判って、やってみるとへぼ同士で丁度いい。それから、うちへ来るとよく碁を打った。(小沼丹「右と左」)

最後に会ったのは路上で、「「──何れ、また……」と云う心算で片手を挙げて、立停らず黙ってその儘右と左に別れて来た」が、それきりとなった。

「右と左に別れて来た」というところに、人生の悲しさが感じられる。

「かんかん帽」は、昔の友人・矢島のことを書いたものだ。

矢島は学校を出ると結婚したが、間も無く兵隊にとられて戦死した。いろいろ心残りのことが多かったろうと思う。学校を出て間も無い頃だが、街で矢島に会ったら、かんかん帽なんか被っていたので吃驚した。どうだい、似合うだろう?と云ったが、どうだったかしらん?(小沼丹「かんかん帽」)

かんかん帽をネタにして、亡き友人の回想を描くのは、いかにも小沼丹らしい手法である。

旧友ということでは、石川に関する随筆もいい。

石川は名古屋の或る新聞社に勤めていて、停年になって学校の先生になったと聞いたが、いまはそれも辞めて悠々自適と云う所らしい。学生の頃はたいへんいい詩を書いていて、井伏鱒二氏も石川の詩を讃めていたが、新聞社に入ってから詩を書くのは止めたらしい。(小沼丹「酒友」)

石川の詩のことは、小沼さんの「翡翠」という短篇小説に詳しいし、井伏さんも随筆の中で採りあげている(「九月二十日記」)。

ちなみに、小沼丹に「井伏鱒二と将棋をやってみたらいい」と最初に勧めたのは、この石川隆士だったということが「将棋の話」に書かれているが、井伏さんとの将棋の話は、いろいろなところで顔を出す。

うちでやる新年将棋会にも、井伏さんはお元気な頃は何遍も来て下さって、優勝盃に優勝井伏鱒二と書いた紅白のリボンを結び付けたことも何度かあった。その頃は将棋の出来ない庄野潤三が優勝盃を授与する係で──いまは止めたが──井伏さんが畏まって庄野からカップを受取ると、みんなで拍手したりしたが、これもいまは懐しい想い出になった。(小沼丹「追悼 横丁の井伏さん」)

「将棋の出来ない庄野潤三が優勝盃を授与する係で」というところがおかしい。

表題作「福寿草」は、亡くなった本屋の親爺の思い出を書いた作品である。

昔、或る年の暮に吉祥寺の町を歩いていて、ひょっこり、知合の本屋の親爺に会ったことがある。福寿草の鉢を大事そうに持っていたから、「──福寿草、どうしたんだい?」と訊くと、近くの店で買ったと云って、「──何も無いから、せめて福寿草でも飾って正月を迎えようと思いまして……」と親爺が笑った。(小沼丹「福寿草」)

年末に福寿草を買うのは、この後、小沼家の年中行事ともなったらしいが、「先日、庭の落葉を燃していたら、煙のなかに本屋の親爺の顔が現れたので、成程、福寿草の出る頃になったなと気が附いた」とあるのが、小沼さんらしくていい。

ちなみに、吉祥寺は、特に愛着のある街だったようで、「昔と今と」にも登場している。

昔は吉祥寺の町を歩いていると、幾つもの馴染顔に出会ったが、それが段々少なくなって、近頃はとんと見掛けない。何だか淋しいが、昔とは一変して陽気で賑やかになった町へ出ると、まるで知らない町を歩くように心愉しくなるから不思議である。どう云う譚かしらん?(小沼丹「昔と今と」)

小沼丹の暮らす武蔵野市八幡町からは、三鷹駅前へ出るバスとは別に、吉祥寺駅前へ向かう直通バス(関東バス)もあったから、隣町・吉祥寺は馴染み深い町だったのだろう。

小沼丹は思い出を大切にする作家だった

最初の妻が亡くなったときのことは「喪章のついた感想」で詳しく綴られている。

先日、僕は近所の街道に出てみた。昔は──と云うのは昭和十六、七年頃だが、この街道の両側には巨木が並んでいて鬱蒼と茂り、街道は宛ら緑のトンネルを形づくっていた。車は殆ど通らず、人も殆ど歩いていなかった。そのトンネルの下を、僕は女房となる筈の彼女と歩いた。二人共、まだ学生であった。(小沼丹「喪章のついた感想」)

亡き妻に捧げる追悼文は、読んでいて、胸が痛くなる。

小沼丹の場合、やはり、昔の生活を思い出して書いたものに、良い作品が多い。

その頃のこの一帯を舞台にして、僕は幾つかの短篇を書いた。「紅い花」はその一つである。戦争が始る頃から、切通しの右手の松林にアパアトが建ったり、左手に住宅が三、四軒出来たりして、三鷹台も少しずつ変貌した。が、戦后は──特に最近はとみに変貌が甚だしく、偶に電車の窓から見ても昔の姿は全く無い。(小沼丹「三鷹台附近」)

三鷹台の思い出を綴った、この文章は、「郊外と云う言葉はあるが、「郊外」はもはや無い。穿き古した靴は消え失せたものと共に捨てるべきだろう」という一文で終わっている。

昔の「郊外」に対する思いは強かったらしい。

戦争の終った年の十月、信州から東京に引揚げて来たのだが、灯の暗い満員の汽車の窓から外を見ていると、矢鱈に平べったい闇の中に點點と燈火が見える。平べったいのは焼跡だからで、ちらちらする燈火も掘立小屋か壕舎から洩れていたのだと思う。(小沼丹「消えてゆく小径」)

疎開から帰京したときの感動は、長篇小説『更紗の絵』にも描かれているとおりだが、小沼丹の作品には、複数の小説や随筆がリンクするものが多い。

例えば「窓のなか」は、生活を感じる窓の中の風景を、感傷的に綴ったものである。

厚い壁を持つ外国の家の窓を見ると、そのなかにどんな生活があるのかと考える。昔、巴里の詩人は遠い窓のなかの貧しい老女の姿を見て、勝手にその女の身上話を作り上げ、その架空譚を自分に語り聞せて涙を流した。遠い窓を見ると、何故かその散文詩が甦る。(小沼丹「窓のなか」)

「散文詩」とあるのは、ボードレールの「窓」のことだが、このくだりは長篇紀行『椋鳥日記』にも読むことができる。

井伏さんに随いて甲州の波高島へ行ったときの話も、いろいろなところで繰り返されている。

或る年の夏、井伏鱒二氏と友人の吉岡達夫と三人で甲州の波高島に行った。田圃のなかに一軒ぽつんとある宿屋に泊った。二階の窓の前に、松の木に這上った凌霄花が見える。強い風に、その朱色の花が揺れるのは悪くなかった。(小沼丹「禁烟について」)

波高島の凌霄花は、よほど小沼さんの印象に残る朱色をしていたらしい。

凌霄花の赤い花から、甲州の波高島が甦り、井伏鱒二や吉岡達夫と旅をした日々が甦る。

それは、小沼丹の文学全般に通じる、懐旧の旅行記でもあった。

もしかすると、小沼丹くらいに、思い出を大切にする作家というのは珍しいのかもしれない。

過去を書くことが絵になった作家。

小沼丹の随筆を読んでいると、そんなことを考えてしまう。

庄野さんじゃないけれど、時々思い出したように読み返したくなる、そんな随筆集だ。

書名:福寿草
著者:小沼丹
発行:1998/01/22
出版社:みすず書房

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やまはな文庫
アンチトレンドな文学マニア。出版社編集部、進学塾講師(国語担当)などの経験あり。推しは、庄野潤三と小沼丹、村上春樹、サリンジャーなど。ゴシップ大好き。