村上春樹「ノルウェイの森」読了。
本作「ノルウェイの森」は、1987年(昭和62年)に刊行された長編青春小説である。
この年、著者は38歳だった。
孤独感や疎外感を抱えた若者たちという青春群像
この物語で「著者は何を書きたかったのか」ということは、物語の最後の場面を読んだときに理解できる。
「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。僕は今どこにいるのだ? 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこか僕にはわからなかった。(略)僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼び続けていた。(村上春樹「ノルウェイの森」)
「僕は今どこにいるのだ?」という問いは、この長い物語に通底する壮大なテーマでもある。
そして、その答えは最後まで分からない。
考えてみると、大学にいるときも、学生寮にいるときも、<直子>の療養所にいるときも、主人公の<ワタナベ君>は、自分の居場所を探し続けていたような気がする。
いや、それはワタナベ君だけじゃなかった。
直子も、<緑>も、<レイコさん>も、<永沢さん>も、<ハツミさん>も、<突撃隊>でさえも、誰もが自分の居場所を探し続けていたのだ。
孤独感や疎外感を抱えた若者たちという青春群像が、『ノルウェイの森』の基本的な構図を支えている。
ジム・モリスン流に言うと、それは、”People are Strange”ということになるのかもしれない。
少なくとも、僕はこの小説を、”Norwegian Wood”というよりは”People are Strange”の物語として読み続けている。
“People are Strange”は、1967年(昭和42年)に発表されたザ・ドアーズのシングル曲。邦題は「まぼろしの世界」だった。
それにしても、久しぶりに読んだ『ノルウェイの森』は、感傷的すぎる青春小説だった。
もともと、この小説は「感傷的な青春小説」だったけれど、今になってみると「感傷的すぎる青春小説」という気がする。
「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだかはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子はいった。「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて(略)」(村上春樹「ノルウェイの森」)
感傷的にさえ書けば、どれだけ過剰な性描写さえも許されるということなのだろうか、感傷的なポルノ小説という気がしないでもない。
この物語は、37歳の中年男性(大人になったワタナベ君)が、学生時代を懐かしく思い出す場面から始まるが、主人公(ワタナベ君)の中で過去は激しく美化されている。
「思い出補正」という言葉があるように、『ノルウェイの森』も、著しく補正された思い出の物語だったのではないだろうか。
まあ、いずれにしても、その感傷性こそが、『ノルウェイの森』という青春小説の大きな魅力であることに間違いはない。
一方で、ナルシシズムとも受け取れる過剰な感傷性は、読者の好き嫌いを大きく左右する要素にもなるだろう。
「女の子とセックスすることでしか自分を慰められない可哀想な僕」という価値観を受容できるかどうかで、この作品の評価は別れるような気がする。
純粋なるエンタメ小説『ノルウェイの森』
現在でこそ愛読書の一つとなっている『ノルウェイの森』だけれど、最初はとっつきにくくて、なかなか読み通すことができなかった。
冒頭の『螢』(という短篇小説)に相当する部分でかったるくなって、大体は途中で投げ出してしまっていたのだ。
初めてこの作品を読了したのは、ニセコにあるスキー場のホテルである。
仲間たちとスキー旅行に出かけて、僕はスキーも滑らずに、文庫本の『ノルウェイの森』を読んでいた。
突撃隊がいなくなって、緑が登場したあたりから、物語はどんどん面白くなった。
この下品な女子大生(緑)の存在は、『ノルウェイの森』という物語を動かす上で、非常に重要な意味を持っている。
緑はもそもそとパンティーを脱いでそれを僕のペニスの先にあてた。「ここに出していいからね」「でも汚れちゃうよ」「涙が出るからつまんないこと言わないでよ」と緑は泣きそうな声で言った。(村上春樹「ノルウェイの森」)
純文学チックな『螢』と異なり、『ノルウェイの森』は純粋なるエンタメ小説である。
1960年代末期の東京を覆っていた時代の閉塞感と、そこで生きる若者たちの疎外感。
「僕は今どこにいるのだ?」という問いかけは、あるいは、この時代を生きた若者たちに共通するテーマだったのかもしれない。
書名:ノルウェイの森
著者:村上春樹
発行:1991/4/15
出版社:講談社文庫