日本文学の世界

井伏鱒二「早稲田の森」まるで小説のように味わい深い随筆集

井伏鱒二「早稲田の森」あらすじと感想と考察

井伏鱒二「早稲田の森」読了。

本書は、1971年(昭和46年)に新潮社から刊行された随筆集である。

この年、著者は73歳だった。

日本経済新聞に連載された「私の履歴書」収録。

「女中さん」のモデルとなった甲府のうなぎ屋

本書では、全部で八篇の随筆が収録されているが、最初に出てくる「釣宿」がおもしろかった。

これは、思い出に残る釣り宿について綴ったもので、釣り好きだった井伏さんらしい作品となっている。

佐藤垢石と釣り旅をしたとき、甲府の「千登勢」という鰻屋へ寄ったところ、井伏さんたちが、あまりに汗まみれ埃まみれだったので、女中が風呂場へ案内してくれた上に、湯巻と浴衣を貸してくれた。

この女中のことを他の若い女中たちは「姐さん」と呼んでいた。年は三十五六歳ぐらいではなかったかと思う。背がすらりとして色が浅黒く、濃い髪を夜会髷のように結って簪はさしていなかった。薄い白地の着物に赤い湯巻が透けて見え、大正時代の男好きの女のような弱みをちらつかせている。(井伏鱒二「釣宿」)

その夜、井伏さんたちは、女中にチップをやらなかったことに気が付き、馴染みの釣り宿「小川亭」で一緒になった行商の小間物屋から簪や帯留めなどを買い、それを甲府の鰻屋へ送った。

次に井伏さんが甲府の鰻屋へ行ったのは三年後のことだったが、夜会髷の女中は部屋へ入るなり「この帯留に御記憶ございますか。この半襟に御記憶ございますか」と言ったそうである。

このエピソードは、後に「女中さん」という短篇小説になったが、まるで小説のような物語が、井伏さんの随筆にはある。

「まるで随筆のような小説」を書いた井伏さんらしい話である。

終わらなかった「私の履歴書」

日本経済新聞連載の「私の履歴書」は「半生記」という題名で収録されている。

後記を読むと「『半生記』は『私の履歴書』という題で日経新聞に連載したが、戦争前後までの経歴しか書けなかったので改題した」とある。

確かに「半生記」は「私の履歴書」というには、あまりに周辺部が描かれすぎている。

例えば、子どもの頃、近所にいた「仁吉」という老人は、かつて、窪田家お抱えの駕籠屋だったが、窪田次郎の厳父は、シーボルトに蘭法医学を学んだ窪田亮貞という開業医だった。

亮貞先生の後を継いだ次郎先生は、地方産業や文化事業にも尽力したが、この人が亡くなった後、一族は東京へ移住してしまったので、屋敷跡は荒れてしまった。

もともと、窪田家の庭は、福山藩時代の殿様・水野勝成の構築にかかると言われていて、殿様は、御用焼窯の姫谷の窯元へ行った帰りに、窪田家で休憩していったそうである。

姫谷焼きというのは、数が少ないことで珍重されている焼き物で、最近になって広く知られようになった。

去年(昭和四十四年)、私は阿佐ヶ谷の骨董屋で、姫谷焼と明示した札のついている丼鉢を見た。十二枚で千五百円の正札がついていた。安いことは安いが贋だから買わなかった。一昨年も、日本橋の或るデパートの八階で催された民芸品即売展で、姫谷焼という札を貼ったシナ製と思われる色絵の小皿を見た。(井伏鱒二「半生記」)

昔から姫谷焼きは、ちゃんとした家柄を示すものとして扱われ、「あの家には、姫谷焼の錦手の皿があるそうだ。その上、まだ、茶山先生の軸と松林先生の軸があるそうだ。ちゃんとした家がらに相違あるまい。大丈夫、あの家なら、うちの娘を嫁にやってもよい」などと囁かれたという。

ここから茶山先生と松林先生の解説が入った後で、話はようやく井伏さんの幼少期へと戻り、お爺さんと一緒に姫谷焼の窯跡を掘りに行ったときのことへと繋がっていく。

ひとつの民俗誌として楽しいけれど、こんな書き方をしていたら、とてもじゃないけれど「私の履歴書」なんか完結しないだろう。

これもまた、瑣事にはこだわらない井伏さんらしいエピソードだと思った。

なお、庄野潤三の名前が出てくる「木山捷平詩碑」は、本書に収録された随筆である。

書名:早稲田の森
著者:井伏鱒二
発行:1971/9/20
出版社:新潮社

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。