外国文学の世界

サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」戦場で生きる若者たちを描いた戦争文学

サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」あらすじと感想と考察

J・D・サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年」読了。

本書「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年」は、2018年(平成30年)、新潮社から金原瑞人の訳によって出版された、サリンジャーの短編集である。

日本オリジナル版で、本国アメリカでは、いずれも未発表作品となっている。

訳者は、この年、64歳だった。

サリンジャーの「幻の短編小説」

非常に分かりにくいんだけど、J.D.サリンジャーが生前に出版した本というのは、全部で4冊しかない。

長篇小説『ライ麦畑でつかまえて』(1951)、短編小説集『ナイン・ストーリーズ』(1953)、中篇小説を組み合わせた『スラニーとゾーイー』(1961)、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア─序章─』(1963)の全4冊である。

ただし、雑誌などに発表された作品は、これ以外にもあって、例えば、短篇集『ナイン・ストーリーズ』刊行時点で、発表済みの作品は全部で30篇あったと言われている。

サリンジャーは、その30篇の中から『ナイン・ストーリーズ』に収録すべき9編を選び、残りの21編の作品は、書籍化しないことを決めたわけである。

また、サリンジャーが最後に発表した中編小説「ハプワース16、一九二四」も、単行本化の噂はありながら、結局、本国アメリカにおいて出版されることはなかった。

ところが、サリンジャーの、こうした未単行本化の作品も、日本ではなぜかすべての作品が書籍化されている。

オリジナルの本がないので、当然、それらはすべてが日本オリジナル編集である(昔の翻訳者は、雑誌に掲載された作品のコピーを使って、翻訳作業を行っていたらしい)。

本書「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年」に収録されている9作品は、いずれも本国アメリカにおいては単行本化されていない「幻の作品」である。

「最後の休暇の最後の休日」と「フランスにて」

本書の収録作品は、『ライ麦畑でつかまえて』で主人公となった<ホールデン・コールフィールド>が、何らかの形で登場している作品(6作品)を中心に構成されている。

このうち、「マディソン・アベニューのはずれでのささいな抵抗」(1946)と「ぼくはちょっとおかしい」(1945)の二篇は、後に『ライ麦畑─』となる小説の原型で、残りの四編は、戦争を扱った戦争小説である。

「最後の休暇の最後の休日」(1944)は、出陣直前の若い兵隊<ベイブ>が、自宅で最後の休日を過ごす話だが、第二次世界大戦に対する若者の評価がストレートに描かれている。

生意気にきこえるかもしれないけど、父さんたち、先の大戦で戦った人たちはみんな、戦争は地獄だということはわかっている、わかっているのに──なぜか、わからないけど──みんな、従軍したことで少し優越感を覚えているようにみえるんだ。(サリンジャー「最後の休暇の最後の休日」金原瑞人・訳)

実際にヨーロッパ戦線でナチス・ドイツと戦ったサリンジャーの戦争観は、「従軍は栄誉ではない」ということである。

戦争に盛り上がるアメリカ国民の熱気と、現実に戦地で殺し合いをしなければならない若者たちの恐怖とが、対比的に描かれている。

そして、戦地へ向かう若者の心を支えてくれるのは、10歳の妹<マティ>である。

しかし、ここにはマティが眠っている。敵が玄関のドアをたたいて、マティを起こしたり、こわがらせたりすることはない。だけど、これから家を出て、銃を持って敵と向き合わないと、そうなってしまうかもしれない。だから、ここを出る。そして敵を殺す。(サリンジャー「最後の休暇の最後の休日」金原瑞人・訳)

戦争とは、実際に自分の手で人間を殺すということだと、サリンジャーは伝えたかったのではないだろうか。

「フランスにて」(1945)は、戦場の塹壕の中にいる若い兵士<ベイブ>の姿を描いた戦場小説である。

実際の戦地で、若者の心と体はすっかりと憔悴しきっている。

おそらく、彼の心はおかしくなりかかっているのだが、彼を心をどうにか支えているのは、故郷にいる妹<マティ>からの手紙である。

「おーい、イーヴズ! ここにいるからな!」野原のむこうのイーヴズが彼をみて、うなずいた。彼はまた穴のなかに身を沈めると、だれにともなく声に出していった。「お願い、早く帰ってきて」がくっと力が抜け、彼は膝を曲げたまま、眠りに落ちた。(サリンジャー「フランスにて」金原瑞人・訳)

戦争で心を病んだ若者が、若い女性からの手紙を読んで救われるというプロットは、後の名作「エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに」と同じだが、本作「フランスにて」は、「エズメに─」のように技巧的な作品ではない。

技巧的ではない分だけ、戦場で生きる若者の姿を純粋に描いているような気がする。

「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」と「他人」

表題作「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」(1945)は、後の『ナイン・ストーリーズ』収録作品につながるような、サリンジャーらしい深みのある作品である(つまり、ちょっと分かりにくい)。

戦地にいる兵隊たちが、ダンスパーティーへ行くメンバーを選んでいる場面を描いただけの物語だが、主人公<ヴィンセント>の心を通して、戦場で生きることの虚しさが浮き彫りにされている。

一方で、弟の<ホールデン>が、戦場で行方不明になっている現状を通して、戦争の張本人であるはずの本国アメリカに対する強い怒りも伝わってくる。

ふたりで、骨まで、孤独の骨まで、沈黙の骨までぬれて、足下の悪い道をトラックまで歩いてもどる。ホールデン、どこにいるんだ? 行方不明なんて知らせは気にするな。隠れんぼなんかしてないで、出てこい。どこでもいいから出てきてくれ。(サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」金原瑞人・訳)

名作『ライ麦畑でつかまえて』へとつながる予感を感じさせる短篇小説だ。

最後の「他人」(1945)は、帰還兵<ベイブ>が、妹<マティ>を連れて、戦死した友人<ヴィンセント>の元カノに、ヴィンセントの遺した詩を届けるという物語である。

四つの作品の中では、唯一、復員後の若者の姿を描いているものだが、原題「The Stranger」が、戦争から社会復帰した若者の心を鋭くとらえている。

「ストレンジャー」だったのは、一体誰か?

しかし、それより恐ろしいのは、戦争にいっていない人たちにこういうことをいいたくてたまらない気持ちのほうだ──この気持ちのほうが、声に出していうことよりずっと恐ろしい。(サリンジャー「他人」金原瑞人・訳)

ベイブは、ヴィンセントの戦死を「美化することなく」伝えなくてはいけないと考える。

この作品でも、戦争で心を病んだベイブの横にいて、彼を支えているのは、妹のマティである。

おそらく、ベイブは、実際に戦場を経験した帰還兵の自分が生きる場所を、アメリカの中に見つけることができなかったのではないだろうか。

戦争を経験した者と戦争を経験していない者との共存の難しさを、この小説は教えてくれる。

そして、戦争を経験した「ストレンジャー」の疎外感は、やがて「バナナフィッシュにうってつけの日」で自殺するシーモア・グラスの姿となって、再び描かれることになるのだ(より洗練された作品となって)。

サリンジャーの戦争文学には、日本の戦争文学とは違う味わいがある。

確かなことは、敗戦国でも戦勝国でも、戦争は若者たちの心に深い傷痕を残すだけのものだった、ということだ。

今また我々も、戦場を経験した作家と戦場を経験していない読者との大きな空白を目前にしているのかもしれない。

あとはただ想像力をたくましくするしかないだろう。

サリンジャーが伝えたかったことを描いた、これらの作品を通して。

書名:このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年
著者:J.D.サリンジャー
訳者:金原瑞人
発行:2018/06/30
出版社:新潮社

ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。