日本文学の世界

永井龍男「そばやまで」なぜ男は自殺未遂をする若い人妻に惹かれるのか

永井龍男「そばやまで」なぜ男は自殺未遂をする若い人妻に惹かれるのか

永井龍男「そばやまで」読了。

本作「そばやまで」は、1951年(昭和26年)5月の「別冊文藝春秋」に発表された短編小説である。

単行本では、『白い犬』(1951)に収録されている。

自殺未遂をした若い人妻の暮らし

『永井龍男全集』全12巻を買ってきたので、最初に「第二巻(短編小説Ⅱ)」から「そばやまで」を読んでみた。

「第二巻(短編小説Ⅱ)」には、昭和26年から30年までの5年間に発表された短編小説が収録されている。

全集の最初の四冊が短編小説で占められているのは、いかにも、短編小説作家として定評のある永井龍男らしい。

短編小説の名手とも呼ばれる永井龍男だが、本作「そばやまで」のポイントは、巧みな構成と書きすぎない描写にあると言っていい。

この作品は、二つのストーリーで構成されていて、その一つは、作品の主柱となっている「私」の住まい探しの話である。

終戦後の住宅難の中、家主から立ち退きを迫られている「私」は、住まい探しに難渋している。

それは、「私」が会社勤めを辞めて、売文業で生きていくことを決断した時期でもあり、妻と子ども二人の家族を養っていけるかどうかという不安が、「私」を焦らせてもいた。

借家の半分を、大連から引き揚げてきた家主の親戚に譲り渡し、「私」は玄関の三和土(たたき)に畳を敷いて、執筆活動のための空間とする。

やがて、近所に仕事場を貸してくれる家が見つかり、「私」の心は落ち着きを取り戻していくというストーリーだ。

もう一つのストーリーは、家を探し歩いているときに出会った、色の白い、若い人妻の話である。

年の離れた夫と、住宅の下見に来ていた人妻は、持て余し気味の高い上背と、関西訛りの無器用な東京弁が妙に印象に残る、美しい女性であった。

女にしては、かなり背の高い人だと、妻の脇からその後ろ姿を見ていたが、こちらへ向けたその人の顔から襟もとは、思いがけぬほど色が白かった。背の割りに小ぢんまりして見える顔に、瞳が無表情に大きく、染め付けか何かの、細長い瓶を感じさせるようなところがあった。陶器の、そんな冷たさを連想させる肌の白さだった。(永井龍男「そばやまで」)

三和土に畳を敷いて原稿を書き始めた頃、「私」は妻から、あの人妻が睡眠薬を飲んで太田病院へ担ぎ込まれたという話を聞く。

女の夫は、東京に愛人のある作曲家で、女が自殺未遂をするのは、これが二度目だったらしい。

やがて、近所の仕事場で原稿を書いているとき、「私」は天ぷら蕎麦が食べたくなって、蕎麦屋まで散歩に出かける。

そのとき、思いがけず「私」は、七、八歳になろうかという男の子と一緒に歩いている、あの背の高い人妻を見つける。

角の八百屋から男の子が跳び出し、踏切りの方へ小走りに駆けた。勘定をすませ、一足遅れて店を出た白い横顔を、──あの人だと私は思った。普段着の上に襟巻をし、長身を少し前屈みにした歩き方が、すぐ印象を呼びさました。男の子を連れて、小刻みに足を運ぶ後ろ姿に、相変わらず孤独な翳を隠せなかった。(永井龍男「そばやまで」)

それから「私」は蕎麦屋に入り、蕎麦が来た後から酒を飲みたい気持ちになって、熱燗を注文する。

二度の自殺を図った女の暮らしを空想しながら、「私」は、現在の不自然な生活を物珍しく扱っている自分を戒めてみた。

酒が来たとき、蕎麦はすっかりとぬるくなってしまっているところで、物語は終わる。

読者に余韻を与える余白の多さ

仕事場にも窮する原稿書きの「私」の暮らしと、自殺未遂をした若い人妻の暮らしが、そっと重ね合わせられているところに、この小説の味わいがある。

二つの人生は、すっかりと伸びてしまった天ぷら蕎麦によってまとめられているが、蕎麦は決して不味いわけではない。

GHQの公職追放により出版業界から締め出された著者が、原稿書きとして暮らしを立てなければならなくなった時代の焦りと自嘲が、懐かしさをもって描かれている作品だろう。

その中へ、孤独な翳を持つ若い人妻を登場させたところに、短篇小説の名手としての永井龍男の手腕があると感じた。

もうひとつ、この作品の特徴は、細部が書き込まれていないということである。

短編小説だから当然なのだが、家探しに窮する「私」の焦りや、自殺未遂をする人妻の孤独は、決して掘り下げられてはいない。

通常、こうした部分が、短篇小説の欠点と言われ得るところだが、永井龍男は、短篇小説の弱点を、むしろ利点として、書きすぎない小説を完成させている。

書きすぎない小説には、余韻を感じるところが多く、読者の中で膨らんでくるものも大きいからだ。

読者に余韻を与える余白の多さが、この作品の最大の読みどころだろうと思った。

文章の上手さは言うに及ばない。

作品名:そばやまで
書名:永井龍男全集 第二巻
著者:永井龍男
発行:1981/5/20
出版社:講談社

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じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。庄野潤三さんの作品を中心に、読書の沼をゆるゆると楽しんでいます。