日本文学の世界

真壁仁「詩の中にめざめる日本」寅さんも知っていた?民衆の詩で読む戦後日本史

真壁仁「詩の中にめざめる日本」読了。

本作「詩の中にめざめる日本」は、1966年(昭和41年)10月に岩波新書から刊行された、詩の批評集である。

この年、著者は59歳だった。

初出は、1959年(昭和34年)5月から『月刊社会教育』に連載されたもの。

『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』と定時制高校

1980年(昭和55年)12月に公開された映画『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』で、定時制高校の国語教師(松村達雄)が、「便所掃除」という詩を朗読する場面がある。

下ネタ連発の詩に、すみれ(伊藤蘭)をはじめとする生徒たちは大爆笑するが、やがて、著者の意図を理解したとき、彼らはみな黙り込んでしまう。

詩の持つ力を映像化した、素晴らしいシーンだと思った。

このときの松村達雄の「著者は、便所掃除を通して自分の心まで浄化したのだ」というコメントも、詩の鑑賞として的を得ていていい。

もともと、この「便所掃除」は、1955年(昭和30年)に「第五回国鉄詩人賞」を受賞した作品で、作者は国鉄の金沢車掌区で働く浜口国雄という労働者だった。

『男はつらいよ』以前に、浜口国雄の「便所掃除」を、国民に広める役割を担ったのが、本書の編者である真壁仁である。

真壁仁は、『月刊社会教育』において、著名ではない一般市民の詩を採りあげて批評する作業を通し、戦後日本で、民衆が詩に目覚めていく過程を記録しようとした。

その記録の一部がまとめられたのが、本書『詩に目覚める日本』である。

ここに収録されている作品の多くは、労働組合の機関誌や地域の文芸サークルの雑誌などに発表されたものだ。

自費出版された詩集から選ばれた作品もある。

機関車にのっている国鉄の労働者も、郵便を配る全逓の労働者も、大理石のビルに紙幣を数える銀行員も、紡績にはたらく娘さんも、ニコヨンのおばさんも詩を書いた。結核の患者も癩患者も詩を書いた。原爆で死に目にあった広島の市民も、無実の罪で投獄された松川の被告も詩を書いた。農村でも青年や若妻たちが書いている。(真壁仁「詩の中にめざめる日本」)

戦後、詩は、民衆の心の声を言葉に換えるメッセージ・ツールとなった。

浜口国雄の「便所掃除」は、国鉄(日本国有鉄道。民営化されて「JR」となった)で働く労働者の心の声である。

朝風が壺から顔をなぜ上げます。/心も糞になれて来ます。/水を流します。/心に、しみた臭みを流すほど、流します。/雑巾でふきます。/キンカクシのウラまで丁寧にふきます。/社会悪をふきとる思いで、力いっぱいふきます。(浜口国雄「便所掃除」)

編者の真壁仁は「これはきたない詩じゃない。それどころか、無類に美しい詩だと思う」と、この作品を評しているが、作者・浜口国雄は、敗戦まで、ハガキ一枚ろくに書けないくらい、文学とは縁のない人間だったという。

作者の生活環境や作品の背景を紹介することで、詩に対する理解を深めることができるようになっている、本書の構成もいい。

作品と批評(あるいは鑑賞)とが一体となって、一篇一篇の詩から、生々しく、鮮やかなイメージを描き出す効果を生み出している。

本書に収録されている作品で、国民に広く知られているものは「便所掃除」以外にもある。

例えば、村井安子の「チューインガム一つ」は、岡林信康のフォークソングとして有名な作品だ。

せんせい おこらんとって/せんせい おこらんとってね/わたし ものすごくわるいことした/わたし おみせやさんの/チューインガムとってん/一年生の子とふたりで/チューインガムとってしもてん(村井安子「チューインガム一つ」)

もともと、この作品は、灰谷健次郎の『せんせいけらいになれ』(1956年・理論社)で紹介されたのが最初だった。

そのとき、灰谷健次郎は、神戸市立東灘小学校の教諭で、「チューインガム一つ」の作者である村井安子は、小学3年生の児童だったという。

『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』と同じように、灰谷健次郎の『せんせいけらいになれ』も、文学(詩)を通した教育の美しさを教えてくれる作品だった。

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学校に関するものは、本書にも多くて、高知の教師だった竹本源治によって書かれた「戦死せる教え児よ」も、そのひとつだ。

逝いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ!/君を縊ったその綱の/端を私も持っていた/しかも人の子の師の名において(竹本源治「戦死せる教え児よ」)

初出は、高知教組の機関誌「るねさんす」(1952年)で、その後、多くの方面で転載されたという。

この作品が書かれた1951年(昭和26年)、日教組中央委員会は初めて「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを掲げていて、戦時教育の総括が盛んだった時代を思わせる。

本書が刊行された後、日本では、社会運動と連動したフォークソングがブームとなるが(「反戦フォーク」や「プロテスト・ソング」「関西フォーク」などと呼ばれた)、「チューインガム一つ」以外にも、ここからフォークソングとなった作品が、いくつかある。

札幌の若手詩人・薩川益明の「自由について」や髙橋敬子の「前身」は、中川五郎により、メロディをつけて歌われた。

炸裂する黄リンはたしかに熱い/糜爛した皮膚の下を苦しく流れる鮮血よりも/銃弾はたしかに硬い/黒い髪の毛の垂れかかる額よりも/毒ガスは侵蝕する/いのちに潤った粘膜の深部を/とても陰性に///おまえ/ベトナム/ナフサやガソリンで炎上している歴史の面わ/火傷の痛みに耐えている/ぼくの自由よ(薩川益明「自由について」)

髙橋敬子の「前身」は、樺美智子追悼詩集『足音は絶ゆる時なく』に収録された作品で、作者は横浜国立大の学生だった。

文学である詩が、映画や歌を通じて広まってきたということも、戦後文学史の一つの傾向と見ることはできないだろうか。

京都銀行の労働者だった有馬敲の作品は、高田渡が多くフォークソング化している。

おれは印刷屋 贋金つくり/ニセのお金でパンを買う/背広をあつらえ家賃を払う///誰も知らない贋金つくり/日本銀行の発券係も/タバコ買った釣銭で贋金つかむ/妻や上役へのおくり物買う(有馬敲「贋金つくり」)

銀行員も国鉄職員も農民も炭鉱夫も、等しく労働者としての詩を書いた。

主婦詩人として知られる石垣りんもまた、日本興業銀行に働く銀行員だった。

この国の恥ずべき栄光を/無力だった国民の名において記憶しよう。///消毒液の匂いと、汗と、痰と、咳と、骨と皮と、貧乏と/それらひしめくむしろの上で/人ひとり死んだ日を記憶しよう。(石垣りん「日記より」)

医療保険を求める患者が、日々死んでいく一日を、石垣りんは「一九五四年七月二十七日」という日付とともに、記憶しようとした。

戦後の市民は「心の声」を言葉に変換した

本書『詩の中にめざめる日本』に収録されている作品のテーマは、実に多様だ。

被爆者の詩があり(八島藤子、峠三吉、岡本俊夫、佐藤智子)、被差別部落の詩があり(丸橋美智子)、僻地学校の詩があり(樺戸栄子)、都市生活者としての主婦の詩があり(にしおかつこ)、北海道の農村の詩がある(熊谷克治、友田多喜雄)。

宗門改めの詩があり(菊地綾子)、中国人労働者の詩があり(押切順三)、アイヌ民族の詩がある(更科源蔵)。

そのすべてが、戦後日本という、エポックメーキングな一つの時代を象徴する記憶であり、記録だったのだろう。

山田今次は、京浜で働く労働者だった。

あめは ざんざん ざかざん ざかざん/ざかざん ざかざん/ざんざん ざかざか/つぎから つぎへと ざかざか ざかざか/みみにも むねにも しみこむ ほどに/ぼくらの くらしを かこんで たたく(山田今次「あめ」)

新日本文学会の第1回創作コンクール(1947年)当選作品「あめ」は、オノマトペ(擬音)によって構成された作品だが、「ざんざん ざかざか」という擬音は「雨の擬音ではなくて、作者の怒り、にくしみ、抵抗の精神の擬音になっている」と、編者は指摘している。

激しくたたきつける雨の音に、読者は、惨めな小屋で暮らす作者の貧しい生活を連想するとともに、貧しい暮らしを余儀なくされている作者自身の、感情の爆発をも読み取ることができるからだ。

本書に収録されている作品の中でも、特に優れた作品のひとつだと感じる。

森春樹は、岡山県瀬戸内市の長島愛生園で暮らす癩詩人(ハンセン氏病の患者である詩人)だった。

いつの日から か/指は/秋の木の葉のように/むぞうさに/おちていく。///せめて/指よ/芽ばえよ。/一本、二本多くてもよい。/少くてもよい。/乳房をまさぐった/彼の日の触感よ。///かえれ/この手に。(森春樹「指」)

2023年(令和5年)2月から5月にかけて、国立ハンセン病資料館で「ハンセン病文学の新生面『いのちの芽』の詩人たち」が開催されて、往年の癩詩人にも注目が集まった。

本作「指」からは、寿司職人だった作者の、指に対する悲痛なまでの祈りが感じられる。

「瞳(いつも目を伏せている検事へ)」は、松川事件の被告だった赤間勝美の作品。

おれ達に/きらきら光るひとみがあるかぎり/くらやみが/おれ達をつつむことはできぬ///たとえ おれ達を/絞首台につるすことができても/真実はけっして/目をつむりはしない///検事よ/お前の足もとを見ろ!/みじめで/雨上がりの崖道のようで/そうしてうしろには/何もないじゃないか!(赤間勝美「瞳(いつも目を伏せている検事へ)」)

1949年(昭和24年)8月17日未明、東北本線松川駅の近くで、上り旅客列車が脱線転覆し、機関士と助手の3人が亡くなった。

この松川事件は、終戦直後の闇を象徴する事件として昭和史に記録されているが、作者・赤間勝美は、当時19歳の少年で、この事件唯一の証拠と言われた「赤間自白」は、拷問と強制によるものだったと言われている。

戦後は、産業構造の大きな転換を余儀なくされた時代でもあった。

きょう 鉱山は抗口を閉ざし/おれたちは 鉱塵と ガスのしみこんだ作業着をぬぐ/索道はとまり クラッシャーの音もなく/しのびよる春をよそに 鉱山(やま)は不気味に静かだ///硫黄とともに生きたおれたち/硫黄のために死んだ仲間/おれはいま仲間に 悲痛をこめて さようならをいう(丹野茂「硫黄」)

丹野茂は、蔵王鉱業で働きながら詩を書いてきた詩人である。

蔵王鉱業は、1962年(昭和37年)の貿易自由化を契機に合理化首切りを断行、閉山に至っているが、閉山の直接的な理由は、1962年(昭和37年)12月25日に発生した原因不明の坑内火災だったという。

こういう本を読んでいると、詩が、立派な戦後史を構成していることに驚かされる。

そして、戦後という時代が(高度経済成長期という美しい言葉に象徴されるような)決して明るいだけの時代ではなかったということに、気付かざるを得ない(つまり、闇だ)。

俳句や短歌と違って、詩には(形式的な)自由がある。

詩というメッセージ・ツールがあったからこそ、民衆は「心の声」を言葉に変換することができたのだろう。

この本が、初版から半世紀以上が経過した2021年(令和3年)になって復刊されたという事実にも、我々は何かしらの意味を読み取ることができるだろうか。

意外と、戦後は、まだ、終わっていないのかもしれない。

書名:詩の中にめざめる日本
編者:真壁仁
発行:1966/10/20
出版社:岩波新書

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青いバナナ
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