日本文学の世界

小沼丹「入院」平凡な家庭の中の小さな幸せほど大切なものはない

小沼丹「入院」あらすじと感想と考察

小沼丹「入院」読了。

本作「入院」は、1975年(昭和50年)11月『風景』に発表された短編小説である。

この年、著者は57歳だった。

作品集としては、1978年(昭和53年)6月に講談社から刊行された『木菟燈籠』に収録されている。

人生のちょっとした運・不運

本作「入院」は、二番目の細君が緊急入院したときの様子を題材にした短編小説である。

夜半に、突然体調の不調を訴えて、細君が入院する。

結果的に大事には至らず、細君は無事に入院生活を終えて退院するというだけの話なのだが、かつて、最初の妻を突然失った経歴を持つ<大寺さん>だから、突然の入院というのは、決して安直のものではない。

大寺さんの前の細君は夜中に喀血して、血が気管に詰って死んだ。そのときこの医者が車で駆附けて手当したが間に合わなかった。そのときも大寺さんは夜中に電話したことを想い出して、余りいい気持がしなかった。(小沼丹「入院」)

小沼丹の小説では、登場人物の感情が、かなり抑制的に描かれている場合が多い。

「大寺さんは夜中に電話したことを想い出して、余りいい気持がしなかった」とあるのは、このとき<大寺さん>が、かなり動揺していたことを示していると考えて良いだろう。

夜半のことであり、どこの病院も患者の受付に消極的だが、医者をしている義兄の助言に従って、<大寺さん>は受け入れ先の病院を見つけ、娘の自動車で細君を病院へと連れていく。

家族の円滑な連携プレーが、さりげなく描かれているところに、<大寺さん>の幸せな暮らしぶりが伝わってくる。

結局、大寺さんの細君は一ヶ月ばかり入院した。入院して二週間后に手術して、それから二週間后に退院したのである。手術したのは、精密検査の結果、前に診て貰った医者の診断とは違う病気があると判ったからだそうである。(小沼丹「入院」)

細君が緊急入院したとき、<大寺さん>は、二つの病院で受け入れを断られた。

結果的に、三番目に電話をした大学病院に入院できたのだが、もしかすると、この入院が、細君にとって幸運だったのかもしれない。

そんなことは小説には書かれていないが、人生のちょっとした運・不運が、そこにあったのではないだろうか。

咲かない梅から満開の桜へ

この小説の冒頭は、梅の花の話から始まる。

散歩に出ると、あちこちに梅の花を見掛けるが、大寺さんの庭の梅はまだ咲かない。蕾は沢山あるが、開かないから焦れったい。「──今年は遅いな」「──その裡に咲きますよ」(小沼丹「入院」)

そんな会話をした何日か後に、細君の体調が突然悪くなった。

大寺さんは、病院を探して電話をかけまくり、細君は入院をして、手術をして、一か月後に退院する。

細君が退院する少し前、<大寺さん>は、病院の前のバス停で、火災保険の仕事をしている<松木>という老人と、偶然一緒になる。

何気ない世間話をしながら<松木老人>は、病院の前庭の桜が気になったらしい。

「──桜が見事に咲きましたな……」と云って眺めている。大寺さんも一緒になって、陽を浴びた満開の桜を眺めていたら、細君の入院したときは、まだ庭の梅が咲き始めたばかりだったのを想い出した。改めて、あれから一ヶ月近く経ったのかと思う。(小沼丹「入院」)

なかなか咲かなかった梅の花の話が、満開の桜の話で終わる。

これは、<大寺さん>と、その細君の心象風景を投影しているものと考えて良いだろう。

梅と桜は、季節の推移を表現すると同時に、<大寺さん>一家の平和な家庭をも象徴しているのである。

この小説の重要なファクターとなっているのは、<大寺さん>の亡くなった前妻である。

痛ましい経験をしているからこそ、こんな物語が生きてくるのだと思う。

幸せな暮らしを感じるというのは、たぶん、そんなことなのだ。

作品名:入院
著者:小沼丹
書名:黒と白の猫
発行:2005/09/15
出版社:未知谷

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。