外国文学の世界

カポーティ「あるクリスマス」野崎孝さんが残したもうひとつの翻訳

カポーティ「あるクリスマス」あらすじと感想と考察

先日、ブログで紹介したばかり、カポーティの「あるクリスマス」。

今日は村上春樹さんとは別の翻訳バージョンを紹介します。

書名:あるクリスマス(新潮・1983年12月号)
著者:トルーマン・カポーティ
訳者:野崎孝
発行:1983/12/01
出版社:新潮社

作品紹介

「あるクリスマス」は、トルーマン・カポーティの短篇小説です。

日本では村上春樹さんの翻訳(1989年)で知られていますが、実は、日本で最初に「あるクリスマス」を紹介したのは、野崎孝さんでした

野崎孝さんはサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」やフィッツジェラルドの「偉大なるギャツビー」で知られる翻訳家。

野崎さんの翻訳した「あるクリスマス」は、文芸雑誌「新潮」の198312月号に掲載されています。

原作「One Christmas」が本国アメリカで発表されたのは1982年ですから、その翌年のクリスマスシーズンに合わせて、野崎さん翻訳の「あるクリスマス」が発表されたということになります。

今回は、野崎孝さん翻訳の、日本で最初の「あるクリスマス」を読んでみました。

村上春樹さん翻訳の「あるクリスマス」については、別記事「カポーティ『あるクリスマス』なあ、お父さんに愛してるって言ってくれ」をご覧ください。

カポーティ「あるクリスマス」あらすじと感想と考察
カポーティ「あるクリスマス」なあ、お父さんに愛してるって言ってくれ「クリスマスの思い出」に続いて、カポーティの「あるクリスマス」を読みました。 クリスマスムードが一気に高まりました(笑) ...
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あらすじ

「訳者付記」の中で、野崎さんは次のように綴っています。

トルーマン・カポーティの最新作である。作品の仕立て方としては遠く「クリスマスの思い出」(1958)や「感謝祭の来客」(1967)の系譜につらなる。ということは、これもまた自らの伝記的事実を骨格にした短篇小説であり、幼時の追憶という結構をそなえた詩的な散文小品であるということだ。

かつて「冷血」を生み出す苦闘の渦中から「クリスマスの思い出」や「感謝祭の来客」がこぼれ出たように、「あるクリスマス」もまた、新しいノンフィクション・ノヴェルの創出に身を削るカポーティの苦闘の過程から生まれた小さな作品と見ることもできよう。(野崎孝「あるクリスマス」訳者付記)

村上春樹さんの翻訳との違いということでは、登場人物の名前が「スック」が「スーク」に、「バディー」が「バディ」に、「クイーニー」が「クィーニー」というところが、まず基本的な違いです。

なれそめ

野崎孝さんの「あるクリスマス」を読んだのは、ほんの偶然でした。

たまたま古本屋で手に取った雑誌の中に、それがあったからです。

古雑誌の目次を読んで最初に気付いたのは、高樹のぶ子さんの「光抱く友よ」(1983年下半期の芥川賞受賞作品)で、次にカポーティの「あるクリスマス」に目が行きました。

訳者が野崎孝さんということもあって、僕はこの雑誌を見つけたことを、とてもうれしく思いました。

というのも、僕は野崎孝さん翻訳の「ライ麦畑でつかまえて」や「偉大なるギャツビー」を、こよなく愛していたからです(少なくとも、この2作品については、村上さんの翻訳よりも好きです)。

本の壺

心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、僕の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。

彼は言った。「僕のことは愛してないのか、きみは」

彼は言った。「僕のことは愛してないのか、きみは」「愛してます」とわたしは言った。しかし、本当を言うと、スークとクィーニーと数人のいとこたち、それにいつもベッドの横においておいた美人の母親の写真、これらを除いた他のものに対しては、愛とはどういうものかを悟る機会をわたしは持たなかったのだ。(カポーティ「あるクリスマス」)

野崎さん翻訳版で、主人公の「バディ」は、「僕」ではなくて「わたし」という一人称を用いています。

これは、大人になったバディが子ども時代を回想していることを示すためだと思われますが、物語のほぼすべてが少年の目線であることを考えると、村上春樹さん翻訳の「僕」の方がしっくりくるような気がします。

全体を通して、この「僕」と「わたし」という一人称の違いが与える影響は大きいと思いました(好みの問題もあると思いますが)。

続いてわたしが「ええ。でもパパはぼくに何をくれるつもり?」と言ったとたんに、それは微塵に砕けてしまった。父の微笑は消えた。

「きみは、サンタクロースが持って来たものが気に入ったんだね?」わたしは父に笑顔を向けた。父もわたしに笑顔を返した。そこにはやわらかくてあたたかなものがしばらくたゆたっていたが、続いてわたしが「ええ。でもパパはぼくに何をくれるつもり?」と言ったとたんに、それは微塵に砕けてしまった。父の微笑は消えた。(カポーティ「あるクリスマス」)

スークに教えられたままにサンタクロースの存在を信じなければならないバディは、父にプレゼントをねだります。

もうすぐ7歳になる息子が、未だにサンタクロースの存在を信じている。

父は一瞬の疑念を抱きますが、すぐに、その気持ちを振り払い、「いや、パパはね、きみに先に欲しいものをきめさせて、それからにしようと思ったんだ」と取り繕います。

息子の健やかな成長が、アラバマの暮らしの中で妨げられていると、父が感じた瞬間でした。

神さまさんてものはおりはせん! サンタクロースなんてものはどこにもいやしないんだ。

パパはきみを行かせないぞ。あの古ぼけた狂い屋敷のあの狂い家族のところにきみを戻してやるわけにはいかん。あの連中がきみにどんなことをしたか、ちょっと見てみるがいい。六つになる男の子がだぞ、もうじき七つだな、それがまあ、サンタクロースの話をしてる。みんなあの連中の仕業だよ。バイブルと編み針を相手に日を暮らしてるあの気むずかしいオールドミスの婆さんと飲んだくれの爺さんたち。パパの言うことをよく聞くんだ、バディ。いいか、神さまなんてものはおりはせん! サンタクロースなんてものはどこにもいやしないんだ。(カポーティ「あるクリスマス」)

息子の成長ぶりに父が逆切れするシーンが、この短篇小説のクライマックスですが、「バディ。いいか、神さまさんてものはおりはせん! サンタクロースなんてものはどこにもいやしないんだ」という父の台詞は、野崎さん翻訳の方がキレている感じがよく表現されています(笑)

村上さんの「なあいいか、バディー。神様なんぞいないんだ! サンタクロースなんてのもいないんだよ」という訳は、父が息子に言い聞かせている調子ですが、この場面の父は、やはり、分別を忘れて感情的になっている方が雰囲気です。

あるいは、村上さんには、父親として子どもにキレた体験がないため、理想的な父親像として、このような表現になっているのかもしれませんが。

この後、父は「キスしておくれ。お願いだ。お願いだからパパにキスしておくれ。きみのパパに愛してると言っておくれ」と、取り乱しながらバディに愛を求めます。

豹変していく父の姿こそ、少年バディの記憶の中にしっかりと刻み込まれていくのです。

読書感想こらむ

カポーティの「あるクリスマス」は、やっぱりおもしろい小説だ。

野崎孝さんの翻訳版を読んで、僕はそう思いました。

野崎孝さん翻訳「あるクリスマス」野崎孝さん翻訳「あるクリスマス」

細部の表現が、村上春樹さん翻訳版とはかなり異なっているので、全然別の小説だと言えるかもしれませんが、カポーティはやはりカポーティ。

ぜひ、この野崎孝さんの翻訳も書籍化していただきたいものです(たぶん、書籍化されていないと思うので)。

まとめ

カポーティの「あるクリスマス」、日本最初の翻訳は野崎孝さんだった。

「ライ麦畑でつかまえて」の翻訳者が送る、感動のクリスマス物語。

村上春樹さんとは異なる、別の味わいを楽しみたい。

著者紹介

トルーマン・カポーティ(小説家)

1924年(大正13年)、アメリカ生まれ。

代表作に「ティファニーで朝食を」「冷血」など。

「あるクリスマス」発表時は59歳でした(翌年死去)。

野崎孝(翻訳家)

1917年(大正6年)、青森県生まれ。

「ライ麦畑でつかまえて」や「偉大なるギャツビー」など、歴史に残る名訳多数。

「あるクリスマス」発表時は66歳だった。

ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。