雑誌「ブルータス」が村上春樹さんの特集をしていますね。
1980年代当時、オシャレな都市生活者を描くことの多かった村上さんの小説は、文芸誌よりも「ブルータス」のような都市生活者向け情報誌の方が似合っていたような気がします。
初期の代表的短篇小説「ニューヨーク炭鉱の悲劇」が発表されたのも、実はブルータスでした。
今回は「ニューヨーク炭鉱の悲劇」が掲載されたブルータスをご紹介します。
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」が掲載されたブルータス
村上春樹の「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の初出は「ブルータス No.15(1981/3/15)」です。
ブルータスの創刊は、1980年5月なので、当時のブルータスはまだ、創刊から一周年も経っていない時期だったんですね。
ちなみに、特集名は「ブルータスのクルマ偏愛学」。
といっても、新しい自動車の話ではなくて、1950年代~1960年代のスポーツカーなんかを紹介するという、なかなかマニアックな特集です。
当時のブルータスには、同じくマガジンハウスの雑誌「POPEYE(ポパイ)」を卒業した読者の受け皿的な位置づけがありました。
大人になったシティボーイが読む雑誌、といったところですね。
割と、ダンディズムにこだわった特集も多かったような気がします。
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を書いた村上春樹
一方の村上春樹さんは、1979年4月、「風の歌を聴け」が群像新人文学賞を受賞して文壇デビューを果たしたばかり。
当時刊行されていた作品は『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の2冊だけで、まだまだ、若手の新人作家の一人でしかありませんでした。
雑誌に発表した短篇小説も、「街と、その不確かな壁」(文学界)のほか、「中国行きのスロウ・ボート」(群像)と「貧乏な叔母さんの話」(新潮)の計3作品のみ。
長篇と短編と合わせて全部で五つの作品しか発表していなかった新人小説家・村上春樹が書いた3作目の短篇小説が、ブルータスに掲載された「ニューヨーク炭鉱の悲劇」でした。
つまり、ブルータスも村上春樹も初々しい時代だった、ということなんですね。
ブルータスに掲載された「ニューヨーク炭鉱の悲劇」
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は、村上春樹さんの短篇小説です。
挿し絵は、イラストレーターの佐々木マキさんが担当。
佐々木マキさんのカラーイラストを観た瞬間にテンションが上がりますね。
1980年代的村上春樹の雰囲気が思いきり溢れています。
なにしろ、4作目の短篇小説ですからね。
ちなみに、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」というのはビージーズの曲名で、小説の書き出しもビージーズの「ニューヨーク炭鉱の悲劇」から始まります。
「ビージーズはおしゃれじゃない」
村上さんの回想によると、ブルータスの編集担当者は、村上さんの持ってきた「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を雑誌へ掲載することに否定的な反応だったそうです。
「ビージーズはおしゃれじゃない」という理由で。
当時のブルータスは時代の先端を走る都市生活者のための雑誌だったので、ビージーズという時代遅れ的なアイテムの登場に戸惑っていたのではないでしょうか。
村上さんは「まあそれはそうかもしれないけれど、そんなこと言われても僕としてはとても困った。僕はこの曲の歌詞にひかれて、とにかく『ニューヨーク炭鉱の悲劇』という題の小説を書いてみたかったのである」「ビージーズが歌おうが、ベイ・シティー・ローラーズが歌おうが、関係ないのだ。人はおしゃれになるために小説を書いているわけではない」と、当時の気持ちを振り返っています。
今では大物の村上春樹も、新人当時は、いろいろと苦労していたんですね。
なにしろ、もう28だものな……
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は、28歳になった男性の周りで、同世代の人間が死んでいく、という話です。
まったくのところ、それはおそろしく葬式の多い年だった。僕のまわりでは、友人たちやかつての友人たちが次々に死んでいった。まるで日照りの夏のとうもろこし畑みたいな眺めだった。28の歳である。
詩人は21で死ぬし、革命家とロックンローラーは24で死ぬ。それさえ過ぎちまえば、当分はなんとかうまくやっていけるだろう、というのが我々の大方の予測だった。
伝説の不吉なカーブも通り過ぎたし、照明の暗いじめじめしたトンネルもくぐり抜けた。あとはまっすぐな6車線道路を(さして気は進まぬにしても)目的地に向けてひた走ればいいわけだ。
我々は髪を切り、毎朝髭を剃った。我々はもう詩人でも革命家でもロックンローラーでもないのだ。酔払って電話ボックスの中で寝たり、地下鉄の車内でさくらんぼを一袋食べたり、朝の4時にドアーズのLPを大音量で聴いたりすることもやめた。
つきあいで生命保険にも入ったし、ホテルのバーで酒を飲むようにもなったし、歯医者の領収書を取っておいて医療控除を受けるようにもなった。
なにしろ、もう28だものな……。
僕が初めてこの小説を読んだのは、短篇集『中国行きのスロウ・ボート』を買ったときのことで、そのとき、僕は23歳か24歳だったと思います。
大学生の頃まで、僕は「流行作家だから」という理由で、村上春樹の作品をまったく読んだことがなかったのですが(そのくせバカにはしていた)、大学を卒業して就職した頃から、村上春樹の小説を次々と読み、いつの間にか熱心な愛読者のひとりとなっていました。
23歳の僕にとって「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は、あまり関心のある小説ではありませんでした。
何だか「年寄りくさい」小説に感じられたからです。
だけど、28歳を目前にした頃に、改めてこの小説を読んでみたとき、僕は、著者の書きたかったことが、なんとなく分かるような気がしました。
つまり「なにしろ、もう28だものな…」、ということです。
小説の最後で、突然に炭鉱が登場して、年嵩の坑夫が「みんな、なるべく息をするんじゃない。残りの空気が少ないんだ」と言う場面があります。
20代の終わり頃っていうのは、まさしく「残りの空気が少ない」という感じで、そのことを理解するには、やはり、自分自身が20代の終わりになってみるしかなかったということなのでしょう。
村上春樹さんの敬愛するフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』で、物語の語り手となっているギャツビーの友人ニック・キャラウェイが、別れた恋人から非難されたときに「僕はもう30ですよ」と塩対応する場面があります。
村上さんが書いた「ニューヨーク炭鉱の悲劇」に出てくる「なにしろ、もう28だものな」という言葉には、ニックの「僕はもう30ですよ」へと繋がる、青春の終わりの切なさみたいなものが隠されているのではないでしょうか。
まとめ
ということで、以上、今回は、ブルータスに掲載された村上春樹さんの小説「ニューヨーク炭鉱の悲劇」をご紹介しました。
小説って、雑誌で読むのと単行本で読むのと文庫本で読むのと、それぞれに違う味わいがあるような気がします。
雑誌に掲載された小説には、その時代の空気感が隅々まで感じられるので、僕は雑誌に掲載された小説というのが大好きです。
ついでに、他の特集記事も読んだりして、週末は、なかなか時間がいくらあっても足りませんね。