日本文学の世界

井伏鱒二「昨日の会」詩集のように美しく愉快で爽やかな随筆集

井伏鱒二「昨日の会」詩集のように美しく愉快で爽やかな随筆集

井伏鱒二「昨日の会」読了。

本書「昨日の会」は、1961年(昭和36年)に刊行された随筆集である。

この年、著者は63歳だった。

詩を読むに似た楽しさがある随筆

井伏鱒二の随筆には、詩を読むに似た楽しさがある。

詩人だから当たり前だと言われるかもしれない。

随筆なのに、詩の構成が感じられるし、一つ一つの文章には、詩の持つ美しさがある。

何より、最後の一文の収め方がすごい。

例えば、「琴の記」は、太宰治の最初の妻<初代>の嫁入り道具だった「琴」についてのエッセイである。

小山初代は青森の芸者。太宰治の最初の妻として知られるが、入籍はしていない。太宰が薬物中毒で入院中に不倫したために離縁された。

太宰と初代が別れたとき、この琴は、井伏さんの家に忘れられたままになっていた(離縁のあと、初代は井伏宅で暮らしていたのだ)。

その琴を、名人の古川太郎が弾いた。

ちなみに、太宰治には「盲人独笑」という、盲目の琴弾き・葛原勾当をモチーフにした作品がある。

古川太郎は、井伏宅の床の間にかかっていた三好達治の詩を歌う。

それは「太郎をねむらせ太郎の屋根に雪ふりつむ 次郎をねむらせ次郎の屋根に雪ふりつむ」という二行詩だった。

古川太郎が帰った後で、井伏さんは妻とこんな会話をする。

「さっきの雪のつもるところは、実際に雪がつもっているようだったね。朝、雪の降っているとき目をさますと、雪の匂いがするね。あの感じだ」私がそう云うと、「三好さんは、あの作曲が出来ているのを知ってらっしゃるでしょうか」と家内が云った。(井伏鱒二「琴の記」)

「三好さんは、あの作曲が出来ているのを知ってらっしゃるでしょうか」という妻の一言が、このエッセイの締めくくりになっている。

太宰治の離婚の話が、琴の話になった後、三好達治の詩の話になって終わるわけだが、「朝、雪の降っているとき目をさますと、雪の匂いがするね」という井伏さんの言葉も詩だろうが、最後の妻の言葉の置き方は芸術的でさえある。

これは、言葉の配列に対する強いこだわりの痕跡だろう。

井伏さんの随筆では、言葉の配列が詩のように美しい。

だから、読み終えた後の余韻まで美しいものになっているのだ。

先日、酒場で村上菊一郎先生に逢った。例の淡竹の結文はどうしたかと聞くと、もうとっくに破いて棄てたと云った。道心堅固な先生だから、艶書なんか不潔だとばかりに破いてしまったことだろう。「すべて恋愛の名残りの品は、恋愛と同じく消えて行くのですね」村上先生はそう云った。(井伏鱒二「艶書」)

ラブレターについて綴られたエッセイの終わりに、村上菊一郎が登場する。

「すべて恋愛の名残りの品は、恋愛と同じく消えて行くのですね」という村上菊一郎の言葉は、いかにも詩的で美しいが、このエッセイは続く「この先生は古風だから、酒を飲むと感傷的な言葉をよく口にする。ヴェルレーヌの「雨の唄」を口誦んで、同席の者をぎょっとさせることもある」という一文で締めくくられる。

テーマのラブレターとは関係のないところで、エッセイが終わっているのだ。

言ってみれば、村上菊一郎はオチなのであって、オチの付け方が、井伏随筆の魅力の一つとなっているのである。

さりげなく外しながら収まりがいい。

「博多で逢った葦平さん」は、今日出海や清水崑などと博多へ行って、火野葦平と合流したときの回想記である。

後年、葦平さんは「酒」という雑誌の扉絵に、河童のサンタクロースを描いた。それがユーモラスに良く描けていた。あの人は、サンタクロースのようなところがあった人ではないかと思う。(井伏鱒二「博多で逢った葦平さん」)

博多旅行の思い出の最後に、突然、河童のサンタクロースの話が出てきて、さらに「あの人は、サンタクロースのようなところがあった人ではないかと思う」という文章で終わる。

これこそ、井伏随筆の醍醐味だと思う。

どの随筆にも教養と温かい人柄が感じられる

話のテーマが豊富なのも、井伏随筆の魅力の一つだろう。

釣りの話があれば、骨董の話もある。

友人数名と長崎に行くと、その土地の天野さんという人が私たちにコンプラ醤油瓶を一箇づつくれた。伊万里系統の正味三合入りの徳利である。昔、長崎のコンパニー会社がオランダと貿易していたころの輸出物の名物で、立山役所の址を掘っていたら、穴倉から二百箇ばかり見つかった。そのうちの一部だということであった。(井伏鱒二「コンプラ醬油瓶」)

どの随筆にも教養と温かい人柄が感じられる。

「徳富蘆花の紀行文によると、この手の徳利をトルストイが書斎に置いて一輪差にしていたそうだ」などと、さりげなく知識が挿み込まれるところも、押しつけがましくなくていい。

「昭南日記」は、貴重な従軍日記である。

永井龍男から手紙が来た。心の緊張を失ってはならぬと戒めた文面であった。強くなれ強くなれと書いてあった。そうありたいものである。(井伏鱒二「昭南日記」)

「昭南日記」には、一緒に活動していた中島健蔵も登場している。

いろいろ書きたいことがたくさんある随筆集だけれど、一番優れていると思ったのは「おふくろ」という随筆である。

小説を書く時に字を間違っちゃいけないと意見したり、そうそう酒を飲むと毒だと注意したり、酒が飲めるのに一杯で止めることはないと言ってみたり。

母親の息子に対する愛情を描きながら、母を愛する息子の感情を愉快に描いた作品である。

日本の随筆文学の傑作だと思う。

まあ、井伏さんには、そんな傑作がたくさんあるんだけれどね。

書名:昨日の会
著者:井伏鱒二
発行:1961/2/10
出版社:新潮社

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じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。庄野潤三さんの作品を中心に、読書の沼をゆるゆると楽しんでいます。