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葛西善蔵「雪おんな(二)」歌志内の冬と砂川の砂金堀り

葛西善蔵「雪おんな(二)」あらすじと感想と考察
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著者(葛西善蔵)は大正6年に「雪おんな」を発表した8年後の大正14年に、続編とも言える「雪おんな(二)」を発表した。

いずれもごく短い小編で、北海道で労働に従事した際の体験に基づいて描かれた小説だが、著者の作品には体験から発展したフィクション的な要素も多い。

物語の語り手である「私」は、妻子を捨てて、寒い雪の多い島国である北海道を放浪しているうちに20年の時が過ぎ、帰るべき妻も子も失ってしまった人間である。

19歳の「私」は、空知川上流にある歌志内から雪越えをして、また吹雪の中を歌志内まで帰るような砂川の砂金人夫の仕事をしていたが、そんな監獄部屋を抜け出し、ある港町で暮らしていた。

「私」は彼女としばしば釣り糸を垂れながら、極北の浪の上で「雪おんな」のことばかり考えている。

「八月を越えると最早冬、五月までの冬、その間に「雪おんな」と云うものは出るんだな」

吹雪のようではあるけれど、雪は割合に少ない、その港町で、「私」は「カソリックの尼さんのAさん」と深い中になる。

やがて「私」はその町を遁走するのだが、風の便りに彼女が妊娠していたことを知る。

あれから20年の時が経ち、今も「私」は、自分の少年時代に夢を与えたくれたカソリックの尼さんに祈りを捧げ続けている。

一獲千金を夢見る砂金掘り

歌志内から雪の山越えをして、また吹雪の中を歌志内まで帰ってきた。毛布も外套も、東京の塩鮭のように凍えてしまい、積った雪が股を越えた場合のことをもう一度想像して呉れ給え。(葛西善蔵「雪おんな(二)」)

葛西善蔵は体験を素材として物語を創作した。

体験はマテリアルであって、作品ではない。

物語は文学作品として完成されたものでなければいけないから、時には体験を大きく超える場合もあったらしい。

文学のためには妻子を捨てることも厭わなかった。

北海道では駅の車掌や枕木伐採の飯場、砂金堀り、道路普請の人夫など、職と住居を転々とし、この時の体験が小説の素材となった。

明治末から大正にかけて、新十津川の山地には一獲千金を夢見る砂金堀りの人々が集まり、砂川の街は砂金で栄えたとも言われている。

あるいは、葛西善蔵もまた、そうした夢見る山師の一人であったのだろうか。

「雪おんな」という幻想的な存在

神よ神よ、すべてのことを許してほしい。—そう云った気持でもあるんだが。…私はその町を遁げたのだ。私にはどうしようもなかったのだ。私は霧の深い朝早く、其処から更に遠い島へ渡る小さな汽船に乗ってしまったのだ。Aさんの其後のことは知らない。(葛西善蔵「雪おんな(二)」

「雪おんな」は、北海道を舞台とした私小説的作品だが、物語としては非常に観念的であり、ストーリーも明確ではない。

北海道での暮らしが幻想的に描かれながら、カソリックの尼である「Aさん」を捨てたことに対する懺悔の言葉が、センチメンタルに並んでいるだけだ。

北海道の冬の幻想的な風景が、「雪おんな」の幻想的な印象を植え付けたのか。

あるいは、少年の日の尼さんとの思い出が、北海道を幻想的に映し出させていたのか。

いずれにしても「Aさん」という女性との体験を通して、著者の中で北海道は美化され、過酷な真冬の暮らしさえも「雪おんな」という幻想的な存在によって塗り替えられてしまったのだろう。

厳しい冬の暮らしから逃げ去るように、「私」は彼女の元から逃げ去った。

「Aさん」は神であったのか、雪おんなであったのか…

書名:哀しき父・椎の若葉
著者:葛西善蔵
発行:1994/12/10
出版社:講談社文芸文庫

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。