日本文学の世界

井伏鱒二「漂民宇三郎」異国に流れ着いた若者たちの青春群像劇

井伏鱒二「漂民宇三郎」あらすじと感想と考察

井伏鱒二「漂民宇三郎」読了。

本作「漂民宇三郎」は、1954年(昭和29年)4月から1955年(昭和30年)12月まで『群像』に連載された長篇小説である。

連載開始の年、著者は56歳だった。

単行本は、1956年(昭和31年)4月に講談社から刊行されている。

1956年(昭和31年)、第12回日本芸術院賞受賞作。

漂流に翻弄された若者たちの青春小説

本作『漂民宇三郎』は、遭難して異国へ流れ着いた漁民たちの漂流物語である。

実際の事件を下敷きにして書かれているらしく、作中には歴史的な記録書からの引用も随所に含まれている。

もっとも、歴史小説とか記録文学とかいった堅苦しさはなく、むしろ、江戸時代の庶民を主人公にした人間ドラマとして楽しむことができる。

とりわけ、江戸時代の日本人が外国へ行ったときの気持ちが、あくまで江戸時代の日本人の観点から描かれているところがおもしろい。

「オオ、パニパニ」と黒人の船乗が奇声を出した。「オオ、ゲブメ。オーレライケ・ゲブメ」と一人の異人が手を出すと、「ノーゴリ」と一人が、げらげらと笑い出した。(井伏鱒二「漂民宇三郎」)

何を話しているのか、全然分からない。

これは、江戸時代の日本人に聞こえた、アメリカの言葉だったのだろう。

「ゲブメ」は「ギヴ・ミー」だろうが、作中に余計な説明はなく、異国の言葉はあくまでも異国の言葉として描かれているところがいい。

読者は、宇三郎を始めとする漂民たちと同化しながら、初めての異文化体験にドキドキすることができる。

主人公の宇三郎が、ハワイで知り合った女の子と仲良くなるところは読み応えがあった。

オイレンは宇三郎がバッテイラに乗る前に、「ミー・アローン、トーマチ・ミゼラブル……」またしてもそう云って、人前もかまわずに宇三郎に抱きついた。これが土地の習俗の一つとはいえ、いきなり飛びつくので鶉籠がぐらぐら揺れた。(井伏鱒二「漂民宇三郎」)

遭難時、宇三郎は18歳の若者で、現代で言えば、高校3年生である。

漂流に翻弄された若者の青春小説として読んでもいいかもしれない。

主人公・宇三郎が架空の人物であることの意味

小説を読み終わって、三浦哲郎の解説を読んでいたら、主人公の宇三郎は架空の人物だとある。

「記録文学として書くのに、実際の人間だけだとちょっとまずいので、宇三郎という人間を一人増やした。それでアメリカに残した。空想の人間なんだ」という井伏さんのコメントが紹介されている。

本作『漂民宇三郎』が無味乾燥な記録文学ではなく、人間味ある井伏文学として完成されているのは、こうした架空の主人公の存在にあるのかもしれない。

「おい、宇三どん、まだ怒っとるがか。いいかげんに折れてくれ。お前に腹を立てさせたままでは、いかにも寝ざめがようない。これが今生のわかれかもしれん」金蔵がそう云って後をつけて来たが、「ほっといてくれ。おいらは一人、異郷に朽ち果てる身じゃ。寝ざめが悪いのは、おぬしではなくて、おいらのことじゃ」(井伏鱒二「漂民宇三郎」)

異国の地で、漂民たちは仲間割れもするし、つまらぬ意地の張り合いも絶えない。

つまり、血気盛んな若者たちの日常が、遠いハワイやロシアの街で繰り広げられているのである。

次郎吉も宇三郎も船乗りだから酒は飲む。二人は長椅子に並んで腰をかけ、異国人がするように玻璃の湯呑のふちをカチカチと合わせてから最初の一杯に口をつけた。こうすると酒に勢いがつくから妙である。二人はすぐ飲みほして次の一杯に口をつけた。(井伏鱒二「漂民宇三郎」)

この味わいを、映画やドラマなどの映像作品で再現することは難しいだろう。

「玻璃の湯呑のふちをカチカチと合わせてから」とあるのは、文学でしか表現することができない味わいだからだ。

大きな歴史的事件を題材にしながら、描かれているのは若者たちの青春群像である。

青春ドラマは、時代を超えて共感できるものらしい。

書名:漂民宇三郎
著者:井伏鱒二
発行:1990/4/10
出版社:講談社文芸文庫

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やまはな文庫
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