日本文学の世界

庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」フーちゃんの自我の発達と庄野家における世代交代

庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」読了。

本作「鉛筆印のトレーナー」は、1991年(平成3年)5月から1992年(平成4年)4月まで『海燕』に連載された長篇小説である。

連載開始の年、著者は70歳だった。

進化する人間関係の中で発達していくフーちゃんの自我

本作「鉛筆印のトレーナー」は、いわゆる「フーちゃん三部作」の、2作目の作品となる。

最初の作品が『エイヴォン記』で、最後(三番目)の作品が『さくらんぼジャム』。

それでは、「フーちゃん三部作」とは何か?

『鉛筆印のトレーナー』の「あとがき」で、庄野さんは、次のように綴っている。

『鉛筆印のトレーナー』は、フーちゃんとわれわれ夫婦がどんなふうにつき合って来たかを書きとめてみようとした作品である。(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

『さくらんぼジャム』を書き上げた後、庄野さんは、夫婦の晩年の喜びを主題とした「夫婦の晩年シリーズ」に取りかかるが、物語の主題は、多くの家族や知人との交流のほか、庭の野鳥や草花、美味しい食べ物に至るまで、幅広く描かれるようになる。

フーちゃんにフォーカスしていた「フーちゃん三部作」とは、明らかにフェーズが変わっていくのだ。

どうして、フーちゃんシリーズは、三部作で完了したのか。

一つには、フーちゃんの家族(つまり次男一家)が、近所から少し離れた町へ引っ越してしまったからであり、もう一つには、フーちゃんの成長が、それを許さなかったからである。

フーちゃん三部作の最初の作品である『エイヴォン記』で満二歳になったばかりだったフーちゃんは、本作『鉛筆印のトレーナー』では四歳から五歳になる女の子として登場し、最後の『さくらんぼジャム』では、小学生にまで成長している。

「フーちゃん三部作」が、フーちゃんという一人の女の子の自我の発達をテーマとした文学作品だと考えたとき、祖父である庄野さんが追いかけることのできたのが、『さくらんぼジャム』までだったということなのだろう。

二歳になったばかりのフーちゃんは、まだ自我を獲得する前の段階であり(芽生えの頃)、フーちゃん一人を作品の主人公とするには不安があったことから、『エイヴォン記』では、庄野さんの読書体験を中心に据えつつ、フーちゃんの成長を書き留めるという二本柱の手法が選ばれたと考えることができる(清水さんの薔薇が、さらにフーちゃんを支えている)。

フーちゃんの自我の発達に、純粋にフォーカスしたということでは、本作『鉛筆印のトレーナー』が初めての作品だった。

物語は、雛祭りの前日から始まり、年末のあたりで終わりとなるが、作中に『誕生日のラムケーキ』や『懐しきオハイオ』が刊行された話が出てくることから、この物語の舞台が、1991年(平成3年)の3月から12月までであることが分かる。

ちなみに、『ザボンの花』(福武文庫)や『紺野機業場』(講談社文芸文庫)も刊行されていて、この年だけで、庄野さんの本が4冊も出版されていることに驚いてしまった。

さらに、翌年1月には短篇集『葦切り』が出るので、当時、書店には、庄野潤三の著作が、いくつも並んでいたということになる。

窓際のベッドの上の『ザボンの花』を見て、フーちゃん、「お父さん、持ってるよ」という。本が出たとき、次男に一冊上げた。お父さんが読んでいるところをフーちゃんは見ていたのだろう。(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

フーちゃんのスケッチの中に、自然と自分の著作が出てくるあたり、いかにも庄野文学という感じがして楽しい。

『鉛筆印のトレーナー』に特別のストーリーはなくて、フーちゃんの日常スケッチを、祖父の温かい目線から丁寧に描き連ねたものが、一つの長篇小説として構成されている。

「鉛筆印のトレーナー」は、庄野夫人がフーちゃんに買ってあげた洋服が、そのまま作品タイトルとなったものだ。

フーちゃんはテレビの「おかあさんといっしょ」を見ていたらしいが、出て来た。前に買って上げた、鉛筆印のトレーナーを着ていた。図書室で本を読んでいたら、妻が帰って、「フーちゃん、鉛筆印のトレーナー着ていた。よく似合っていた」といちばんにいった。(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

物語のスタートが、雛祭りに設定されているのは、この年の4月からフーちゃんが幼稚園に入園することを見据えたもので、大雑把な言い方をすると、『鉛筆印のトレーナー』は、フーちゃんが幼稚園に入園したときのことを綴った物語ということができる。

春の入園、初夏の運動会、夏の誕生日、夕涼みの会、夏休み、秋の遠足と、物語は幼稚園の行事を軸に季節を移しながら進んでいきつつ、そこに肉付けをするように、長男「たつや」のところに初めての子ども(恵子ちゃん)が生まれた話や、いつも薔薇の花をくれる清水さんのところの圭子ちゃんが結婚をするエピソードなどが、織り重なるように綴られていく。

だから、フーちゃん物語は、決して単調な日記に終わることなく、多様で立体的な人生模様を描いた長篇小説としての性格を備えた作品だということができるわけだ。

あつ子ちゃんがお茶のときに話したこと。フーちゃんが恵子を見て、「かわいいー」という。恵子を抱きたがる。抱かせてやって、たつやさんがそっと支えてやっている。それで満足している。(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

進化する人間関係の中で、フーちゃんの自我が発達していく様子を、庄野さんの目は正確にとらえている。

分かりやすい文章で、実際にあった出来事だけを淡々と書いているように見えるが、この作品の奥行きは、かなり深い。

見かけに騙されてしまったら、この作品の醍醐味を充分に味わうことは難しいだろう。

庄野家における緩やかな世代交代

フーちゃんの自我の発達とともに描かれているのは、庄野家における緩やかな世代交代である。

初めての子どもが生まれたとき、長男「たつや」は、父親である庄野さんに手紙を書いた。

お父さんが今の私の年齢の頃はと考えてみると、丁度生田に引越して来た頃で、中学生の夏ちゃんを先頭に三人の子の父親でした。それに比べると、私の場合、大分出遅れた感じですが、あつ子と二人、力を合せて、頑張って行きたいと思います。(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

東京・石神井公園から生田の「山の上の家」へ引っ越して来たとき(1961年4月)、庄野さんは40歳だった(長女は中学2年生、長男は小学4年生、次男は幼稚園)。

『鉛筆印のトレーナー』は、それからちょうど30年後の物語であり、庄野さん70歳、長女44歳、長男40歳、次男35歳ということになる。

長男の手紙に、父親としての世代交代を、庄野さんは感じていたはずだ。

そして、それは、かつて庄野さん自身が経験したことであり、今も(現在進行形で)感じていることでもある。

お昼、おはぎを食べる。二つ食べて、少し迷ってから三つ目を食べた。おいしい。「お父さんはお母さんの作ったおはぎが好きでしたね」と妻がいう。「三つ四つ、上られました。御飯が済んでから、三つくらい上られました」(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

甘党だった父に似てきたと思いながら、庄野さんは、そこに庄野家という家庭が持つ文化の世代間継承を見ている。

その象徴として描かれているのが、父母の郷里の徳島風のまぜずし「かきまぜ」だ。

あつ子ちゃんは妻が家で何度も一緒に作ったことがあるから、「かきまぜ」の作り方を覚えた。ミサヲちゃんも一度だけあつ子ちゃんと二人で作ったことがあるから、作り方を覚えているかも知れない。(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

どうか「かきまぜ」を、庄野家の伝統として、次の世代へと受け継いでもらいたい。

そんな願いが「かきまぜ」にはある。

子どもの頃に食べた記憶のある「さんきらい」で包んだ「お巻き」の作り方を、清水さんが教えてくれたので、庄野夫人は、「さんきらい」の「お巻き」を自分で作ることができた。

「四十五年ぶりで空白が埋まった」と妻は何度もいう。帝塚山の母から「さんきらい」の「お巻き」の話を聞いてから、はじめて自分で「お巻き」を作ってみるまでにそれだけの年月がたったということである。(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

長い時間をかけて継承されるものもあるということを、「さんきらい」の「お巻き」のエピソードは教えてくれる。

あるいは、無意識のうちに継承されていくものもあったかもしれない。

妻は、フーちゃんが南足柄の長女の小さいときとそっくりだという。何か訊かれて、ちょっと心配そうな顔をするところなんかまるで生き写し。顔ではなくて表情がそっくりだという。(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

おそらく庄野夫妻は、フーちゃんに幼い頃の長女の姿を重ねながら、若かった頃の子育てを追体験していたのだろう。

そして、その追体験は、古来、世代交代をくり返してきた人々にとって、普遍的な喜びとなっていたのではないだろうか。

庄野さんの家族小説から得られる共感は、人間の歴史に対する共感でもあるのだ(家族としての歴史)。

一方で、世代間継承の難しいものについても語られる。

その代表として挙げられるのが、夏の海水浴の習慣である。

子どもたちが小さかった頃、庄野家では、毎年、夏になると、外房の太海海岸まで海水浴に出かけた(近藤啓太郎が紹介してくれた吉岡旅館に泊まった)。

年月がたって、今は結婚して親になった者が一家で海へ行く番になった。ただし、南足柄の長女のところでは、主人が泳げないので、小田原の海水浴場へみんなで行くくらいで、泊りがけで海へ行くことはしない。(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

庄野家の大切な伝統が継承されないことの寂しさが、そこには滲み出ているが(特に、庄野さんは夏が大好きだったので)、こうした世代間継承の様相は、庄野家における世代交代を、具体的に浮かび上がらせる効果を発揮している。

つまり、本作『鉛筆印のトレーナー』は、フーちゃんという孫娘にスポットを当てることで、彼女を取り巻く庄野家という家庭環境そのものを描いた家族小説だということだ。

何気ない日常を簡単にスケッチしているようで、庄野さんの文章には気品が漂っている。

その箱入りとは別に、「これは奥さまのお八つ用」といって、小さい、きれいな缶に入ったクッキーを下さった。あとで妻と二人で見ると、風船につかまって空へ上って行くクマのプーさん(イギリスのA・A・ミルン作の童話の主人公で、縫いぐるみの人形の)と野原でプーさんの仲間たちが遊んでいるところをかいた、いい絵の入った缶であった。英国製で、最初は紅茶が入っていたのだろうか。清水さんがきっと大事にしていた缶でしょうね、と妻がいった。(庄野潤三「鉛筆印のトレーナー」)

かつて、伊東静雄は「実に育ちが良い(つまり良家の家庭の)文学青年」として庄野潤三を紹介してきたと、富士正晴は回想している(「庄野潤三と島尾敏夫」~『極楽人ノート』所収)。

庄野さんの家族小説に漂っている気品は、良家の子弟として培われた気品であり、エイヴォンの薔薇の花にも、イギリス製の紅茶の缶にも、あるいは、家族の伝統を大切にする家風にも、その気品を読み取ることができる。

そして、そうした気品から生み出される安定感にこそ、読者は惹きつけられているのではないだろうか。

時代が変わっても、人が求めるのは、精神的な安定感である。

庄野さんの作品が失われていないのは、あるいは、こうした気品のゆえなのかもしれない。

作品名:鉛筆印のトレーナー
著者:庄野潤三
初出:1991年5月~1992年4月『海燕』

書名:鉛筆印のトレーナー
発行:2020/03/17
出版社:小学館(P+D BOOKS)

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青いバナナ
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