日本文学の世界

谷崎潤一郎「痴人の愛」少女の肉体に狂った中年男のリアル育成ゲーム

谷崎潤一郎「痴人の愛」あらすじと感想と考察

谷崎潤一郎「痴人の愛」読了。

本作「痴人の愛」は、1924年(大正13年)から1925年(大正14年)にかけて『大阪朝日新聞』や『女性』に連載された長編小説である。

連載開始の年、著者は38歳だった。

単行本は、1925年(大正14年)7月に改造社から刊行されている。

少女を育成するつもりが、いつのまにか自分が育成されていた

本作「痴人の愛」は、若い女性の肉体に目がくらみ、心まで奪われてしまう中年男性の悲哀を描いた物語である。

主人公<河合譲治>に共感することは難しいが、こういう小説は、作品と距離を置くよりも、いっそ作品に飲み込まれてしまった方が読みやすい。

魔性の女<ナオミ(奈緒美)>と出会ったとき、彼女は15歳で、譲治は28歳だった。

カフェーの女給をしていたナオミを見初めた譲治は、彼女を自分好みの女に育成してやろうと考える。

つまり、この作品は、リアル育成ゲームの物語なのだ。

予定どおり、ナオミは譲治好みの肉体を持った女性へと成長するが、やがて、ナオミは譲治の手を離れて暴走するようになる。

「僕の可愛いナオミちゃん、僕はお前を愛しているばかりじゃない、ほんとうを云えばお前を崇拝しているのだよ。お前は僕の宝物だ、僕が自分で見つけ出して研きをかけたダイヤモンドだ。だからお前を美しい女にするためなら、どんなものでも買ってやるよ。僕の月給をみんなお前に上げてもいいが」(谷崎潤一郎「痴人の愛」)

譲治の盲目的な愛を受けて、いい女へと成長したナオミは、やがて自我を獲得して、自分の好きなように生き始める。

譲治のほかに次々と男を作り、遊び歩くようになるのだ。

ナオミはいきなりツカツカと私の前へやって来て、ぱっとマントを開くや否や、腕を伸ばして私の肩へ載せました。見ると彼女は、マントの下に一糸をも纏っていませんでした。「何だお前は! 己に恥を掻かせたな! ばいた! 淫売! じごく!」「おほほほほ」(谷崎潤一郎「痴人の愛」)

一度は絶縁を決心するが、ナオミの肉体を忘れられない譲治は、何もかもを受け入れてナオミとの生活を再開する。

少女を育成するつもりが、いつのまにか自分が育成されていた──。

本作「痴人の愛」は、そんな悲しい男の物語なのである。

ちなみに、本作<ナオミ>のモデルは、著者・谷崎潤一郎の嫁<千代>の実妹<小林せい子>である。谷崎潤一郎は、不倫相手のせい子と結婚するつもりで、親友・佐藤春夫に「千代を譲ってやる」と約束するが、せい子に結婚を拒否されたため、佐藤春夫との約束も反故にした。千代を気の毒に思う佐藤春夫は激怒して、谷崎潤一郎と絶交。これが、俗に言う「小田原事件」である。

新しい時代の到来を伝える、モダンガールの物語

読めば読むほど吐き気を催す。

それが、谷崎潤一郎の「痴人の愛」という小説である。

「痴人(ちじん)」とは愚かな人の意味で、主人公の譲治は、自分が愚かな人間であることを悟りながら、ナオミと縁を切ることができない。

すべての原因は、ナオミの肉体が、あまりに素晴らしすぎるからだ。

つまりナオミは私に取って、最早や貴い宝でもなく、有難い偶像でもなくなった代り、一箇の娼婦となった訳です。そこには恋人としての清さも、夫婦としての情愛もない。そうそんなものは昔の夢と消えてしまった! それならどうしてこんな不貞な、汚れた女に未練を残しているのかと云うと、全く彼女の肉体の魅力、ただそれだけに引き摺られつつあったのです。(谷崎潤一郎「痴人の愛」)

そんな感情を「愛」と呼ぶべきかどうか疑問はあるが、大正末期のこの時代、男が女の肉体のみに愛情を抱き、そのためにすべての財産も自尊心も投げ与える、そんな愛し方が、あるいは信じられていたのかもしれない。

「痴人の愛」なる愛し方は、来るべき「昭和」というモダンな時代における、新しい男女関係の一つの姿だったのだ(人間として、どうかと思うけれど)。

今では事実、誰も真面目でナオミさんを相手にする者はありゃしないんです。熊谷なんぞに云わせると、まるでみんなが慰み物にしているんで、とても口に出来ないようなヒドイ仇名さえ附いているんです。あなたは今まで、知らない間にどれほど恥を掻かされているか分りゃしません。(谷崎潤一郎「痴人の愛」)

いろいろな男たちの性的な処理道具となることを、むしろ、ナオミは、自分の誇りにさえしてしまっている。

ナオミを愛するということは、この「恥」を全面的に受け入れるということに他ならなかった(そう意味では、譲治はすごい男だと思う)。

もっとも、ナオミの視点に立てば、若い女が自分の身体を武器として、公然と男を自由にできる時代が到来したということでもある。

女性の貞操などという古い考え方に縛られたくない女性たちにとって、ナオミは、新しい理想像であったかもしれない。

本作「痴人の愛」は、新しい時代の到来を伝える、モダンガールの物語でもあったのだ。

読んでいて楽しくはないけれど、ナオミの肉体に溺れた譲治がどんどん発狂していくあたりの描写なんか、谷崎潤一郎という作家は、やっぱり偉い人なんだなと思った(ドMで変態かもしれないけれど)。

マニアックなファンを獲得する理由も分かるような気がする。

書名:痴人の愛
著者:谷崎潤一郎
発行:2016/03/25 改版
出版社:角川文庫

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やまはな文庫
アンチトレンドな文学マニア。出版社編集部、進学塾講師(国語担当)などの経験あり。推しは、庄野潤三と小沼丹、村上春樹、サリンジャーなど。ゴシップ大好き。