吉行淳之介編集の『酔っぱらい読本』というアンソロジーに、庄野潤三のエッセイ「無精な旅人」が収録されている。
時々、新聞を見ていると、東京からそんなに遠くなくて、あまり人に知られていない静かでいい温泉の紹介が出ていることがある。
忘れずに覚えておこうと考えるのだけれど、いつの間にか忘れてしまう。
新聞記事をスクラップしておけばいいのかもしれないが、差し当たっていついつ頃にどこか、そういう温泉へ行こうという必要に迫られていないために、つい読み過ごしてしまうのだろう。
「ああ、ここはよさそうだな。いかにも鄙びていて、人情のある人が住んでいそうな村だ」
そんなことを考えて、道順をもう一度読み直し、よく頭に入れておこうと思って、それきりになってしまう。
もちろん、旅行へ出かけたいと思わない、ということではないだろう。
庄野さんは、鄙びた温泉で、宿屋の人もいい人で、宴会の客が来る心配もなくて、山の物を食膳に出してくれて、仕事に飽いたら散歩するのにいい川が近くにあるようなところへ出かけて行きたいと、いつも心で考えているのだけれど、そういう理想的な温泉宿へ行って、実際に小説をひとつ書き上げて、帰って来ることが出来るかどうかという点になると、さっぱり自信がないのだ。
原稿用紙なんか持って来るのではなかったと、私は後悔するのではないか。
そうして、仕事をしようなどと考えずに、ただこの温泉宿でぼんやりと時間を過して、それだけで満足すべきであったと反省するに違いない。
何かせずに居られない、いつも何かしていなくてはいけないと思うのが、現代に生きているわれわれの癖だけれど、温泉へ行った時くらいは、この強迫観念から解放されて、それこそ無為を楽しむのがいいのである。
むしろ、何かしてはいけないのだと思った方がいい。
寝ころんで、ぽかんとしている。
眠ってやろうと思う必要もない。
眠気を催せば眠ればいいし、眠くなかったら天井を見上げて、役に立たないことを次から次へと考えていればよい。
心を空しゅうして夕飯の時間を待ち、女中か番頭が来たときに、「この辺の地酒がありますか。もし辛口の酒があったら、その方がいいんだ」というようなことを聞いてみる。
しかし、もし辛口の地酒が運悪く無かったとしても、悲観してはいけない。
酒は宿屋で取っているものを飲めばよいので、どういう宿に行き当たるかというのは、これもひとつの運命で、甘口の酒に当たったとして、もう取返しのつかないように思うのはよくない。
酒のさかなにこの辺りで採れる山菜をほしいと思っても、宿屋に着くか着かないうちから、「山菜はある?」などと、せき込んで宿屋の人に尋ねるのはよくない。
その宿の裏山にワラビやゼンマイが生えていたら、出してくれるだろうが、それも運命のようなものなので、山菜がなかったらこの旅行もぶちこわしなどと、極端なことは考えない方がいい。
旅に出かけて、何ごとも理想通りに行くように考えるのは、どこか間違っているわけで、ふだんの暮らしでも、うまい具合にゆくこととゆかないことがある。
旅行の時だけ何でも思い通りにゆくようにと望むのは間違っている。
ふだん不人情なことを平気でしていて何とも思わない人間が、温泉へ行く時だけ人情味を求めるのは無理な話だし、人情というのは、旅先だけで出会うものではなくて、人情をいつも心で大事にしている人なら、東京の街を歩いていても出会う時には出会うものだ。
チェーホフの小説に、「何事も神様のみ心でさあ」という馭者が出てくる。
どこかの温泉へ出かけて行って、いつまでも懐かしく思い出されるような旅となるかどうかは、これも神様のみ心であると思いたい。
そんなふうに考えることのできる庄野さんは、やはり素敵な大人だと思う。
そして、こういう大人の物の考え方というのは、心に余裕がなければ、決してできるものではないだろう。
心に余裕を持っていきたい。
そうすることで、きっと楽しい旅を自分のものにすることができるに違いない。
コロナ禍となって二度目の大型連休に、ステイホームをしながらそんなことを考えている。
書名:続・酔っぱらい読本
編者:吉行淳之介
発行:2013/1/10
出版社:講談社文芸文庫