日本文学の世界

小沼丹「片栗の花」井伏鱒二・伊馬春部・横田瑞穂と東北の小原温泉を旅行したときの思い出。

小沼丹「片栗の花」あらすじと感想と考察

小沼丹「片栗の花」読了。

本作「片栗の花」は、1984年(昭和59年)9月に刊行された作品集『緑色のバス』に発表された紀行随筆である。

この年、著者は66歳だった。

井伏鱒二、伊馬春部、横田瑞穂、小沼丹の東北旅行

小沼丹の『清水町先生』に、井伏鱒二に釣り竿を買ってもらう「釣竿」という文章がある。

釣竿を頂いて一年ばかり経った頃だと思うが、井伏さんと東北の小原温泉に行ったことがある。このときは伊馬春部さんが音頭を取って、横田瑞穂さんも同行した。たいへん愉快な旅行だったが、それは別の話と云うことにして、釣の話に限定したい。(小沼丹「釣竿」)

ここで「それは別の話と云うことにして」と書かれている旅の話が、つまり、本作「片栗の花」ということになる。

この「片栗の花」は、井伏鱒二、伊馬春部、横田瑞穂、小沼丹の四人が、東北旅行をしたときの様子を回想した紀行随筆だが、ポイントになっているのは、伊馬春部の、ちょっと惚けた憎めない人柄だろう。

出発前、井伏さんが心配して「熊が出て来やしないかね?」と訊いたとき、伊馬さんは「滅相もない。どうぞご心配無く……」と安心させるが、目的の宿に着いたとき、井伏さんが、また熊の話をする。

「──伊馬君の話だと、熊が出るとか云うことだったが……」と井伏さんが云ったら、伊馬さんは面喰ったらしい。「──私は熊は出ないと申上げた心算ですが……」と急いで訂正したから何だか面白かった。(小沼丹「片栗の花」)

小松の井上さんのところで美術館を見せてもらったときの、横田さんと伊馬さんの会話も楽しい。

横田さんは伊馬さん相手に、個人でこんな美術館が持てるなんて、たいしたものだ……と頻りに感心していたが、伊馬さんの方は、「──われわれも銀座や新宿の樽平で、随分飲みましたから……。それを忘れないで下さい」と応対していて、何だか可笑しかった。(小沼丹「片栗の花」)

さりげない、ちょっとした会話が、旅行の大切な思い出となっている。

この旅行では、井上さんの案内で長谷川さんの美術館にも寄っているが、ここで旅行者たちは、大きな鯉を見る。

この大きな鯉の年齢は六十歳と聞くと、井伏さんは、「──ぢゃ、還暦ですね、還暦の鯉だ」と云ったので、鯉を見ていた連中はみんな笑い出した。長谷川さんは難しい顔をした老人だったが、このときはみんなと一緒にちょっと笑ったようである。(小沼丹「片栗の花」)

井伏鱒二の名作「還暦の鯉」は、もちろん、このときの旅行が素材となっている。

ホテル・鎌倉に泊まった夜、井伏さんと小沼さんは、二人で朝四時過ぎまで将棋を指していたらしい。

ちなみに、年譜では、1956年(昭和31年)4月のところに「井伏・伊馬春部・横田瑞穂らと東北と旅行」とある。

伊馬春部を追悼する片栗の花

タイトルの「片栗の花」は、白石の町を出て、小原温泉まで行く途中の渓谷で見た花の名前である。

道の左手には山が続いていたが、ちょうど車を停めた所の山裾の崖に、紫の片栗の花が咲いていた。片栗の花を見たのはこのときが初めてだったが、ホテルの奥さんは片栗を、「──あれが、かたかご、の花です」と教えてくれた。「──万葉集に出て来る植物ですね」と伊馬さんが注釈を加えた。(小沼丹「片栗の花」)

三泊四日、盛りだくさんの旅行だったが、蔵王を望む渓谷で見た片栗の花は、この東北旅行を象徴する存在となった。

その後、近所の園芸店で見つけた片栗を庭に植えた小沼さんは、春になって花が咲くたびに、あのときの東北旅行を愉快に思い出している。

その年は、冬が寒かったせいか、片栗が芽を出すのが遅かった。

そんな話をしていたら、或る晩、テレビのニュウスで伊馬さんの訃報を知って吃驚した。片栗の花が咲いたのは、伊馬さんの葬式が済んで更に十日ばかり経った頃ではなかったかと思う。庭のその花を見たら、「──万葉集に出て来る植物ですね」と云った伊馬さんの言葉を想い出して、かたかごの花を教えて呉れた奥さんはどうしたろう、と思ったりした。(小沼丹「片栗の花」)

つまり、この東北旅行を描いた紀行随筆は、伊馬春部に送る追悼の文章だったのだろう。

過ぎ去った時間の流れの中に消えた人々の姿を、小沼丹は実に素晴らしい文章で再現してくれる。

過去を描くことで、小沼丹は人生を描いていたのだ。

何気ない旅行の思い出だけで人生を語ることのできる小沼さんは、やはり凄い作家だと思った。

作品名:片栗の花
著者:小沼丹
書名:緑色のバス
発行:2024/01/16
出版社:小学館 P+D BOOKS

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。