日本文学の世界

永井荷風「日和下駄」究極の東京散策日記~荷風先生の東京ぶら散歩

永井荷風「日和下駄」あらすじと感想と考察

永井荷風「日和下駄」読了。

本作「日和下駄」は、1914年(大正3年)8月から1915年(大正4年)6月まで『三田文学』に発表された随筆である。

連載開始の年、著者は35歳だった。

単行本は、1915年(大正4年)11月に籾山書店から刊行されている。

究極の暇つぶしの結晶として生まれた散策記

個人的に、永井荷風は小説よりも随筆や日記に面白いものが多い。

そして、数ある随筆の中で最高峰とも言えるのが、本作『日和下駄』である。

本作『日和下駄』は、荷風による東京市中散策記である(当時は、東京都ではなく東京市だった)。

現代風に言えば、「荷風先生の東京ぶら散歩」といったところだろう。

この東京ぶら散歩、実に名文名句が多い。

すべての文章が名文だと言いたいくらいに完成度が高い。

とりわけ、東京散策に対する荷風の哲学が明確に示されているところがいい。

今日東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない。これに加うるに日々昔ながらの名所古蹟を破却して行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。(永井荷風「日和下駄」)

「市中の散歩は子供の時から好き」だった荷風は、「日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く」東京散策を日々の楽しみとした。

もとより、東京には名所と呼べるほどの風景も建築もあるわけではないことは、荷風自身が指摘しているところである。

それでも、東京は、東京に生まれた者に対して特別の興趣を催させると、荷風は綴っている。

しかるに私は別にこれといってなすべき義務も責任も何にもないいわば隠居同様の身の上である。その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。(永井荷風「日和下駄」)

つまり、荷風の東京散策は、究極の暇つぶしだった。

この究極の暇つぶしの結晶として埋まれた散策記が、すなわち、本作『日和下駄』なのである。

現代の東京を歩きながら、江戸時代の東京を散策する

もちろん、荷風の暇つぶしには、東京に対する深い愛情がある。

東京を知り尽くした者でなければ書けない東京の魅力が描かれている。

荷風の『日和下駄』が、単なる自己満足の散策日記に終わることなく、優れた東京ガイドになっているのも当然である。

そして、荷風は、あくまでの己の審美眼によって、東京を観察して歩いた。

「裏町を行こう、横道を歩もう」などというキャッチコピーのような文章も、荷風の散策哲学に裏打ちされた『東京市の歩き方』の一つなのだろう。

江戸絵図はかくて日和下駄蝙蝠傘と共に私の散歩には是非ともなくてはならぬ伴侶となった。江戸絵図によって見知らぬ裏町を歩み行けば身は自ずからその時代にあるが如き心持となる。(永井荷風「日和下駄」)

東京散策のとき、荷風は現代の地図ではなく、古い江戸時代の地図を持って歩いた。

現代の東京を歩きながら、荷風は、江戸時代の懐かしい東京を散策していたのである。

散策の楽しみ方として、実にモダンな発想だと思う。

これじゃあ、まるで「ブラタモリ」だ。

いや、むしろ、タモさんの散歩が、永井荷風の影響を受けていると言うべきなんだろうな。

散策哲学と同じくらい、都市景観に対する荷風の観察眼も、かなり鋭くて独特のものがある。

雨が霽れると水に濡れた家具や夜具蒲団を初め、何とも知れぬ汚らしい襤褸の数々は旗か幟のように両岸の屋根や窓の上に曝し出される。そして真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、または子供を背負った児娘までが笊や籠や桶を持って濁流の中に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る雑魚を捕えようと急っている有様、通りがかりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下もとに、或時はかえって一種の壮観を呈している事がある。(永井荷風「日和下駄」)

大雨の後の貧民窟にさえ、荷風は「思いがけない美麗と威厳」を発見して驚いている。

荷風の東京散策は、実際に新しい発見の連続であって、そこに『日和下駄』の斬新な感動がある。

そして、その感動は、荷風の歩いた時代から100年以上の時を経て、今もなお、新しい読者へと受け継がれているのだと思うと、言葉にできない感慨を抱いても当然だろう。

これは、ただの東京散策日記ではない。

東京に憧れ、死ぬまで東京に魅せられた男の、究極の東京散策日記なのである。

書名:日和下駄
著者:永井荷風
発行:1999/10/10
出版社:講談社文芸文庫

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。