村上春樹の世界

村上春樹「THE SCRAP 懐かしの一九八〇年代」時代を超えたゴシップ記事

村上春樹の「THE SCRAP 懐かしの一九八〇年代」は、ある意味での書評エッセイである。

どういうことかというと、この見開き2ページの短いコラムは、アメリカの雑誌や新聞の面白い記事を紹介して、そこに著者の簡単なコメントを付け加える内容となっているからだ。

もっとも、一冊の雑誌まるごとに言及することはほとんどなくて、あくまでのひとつの記事をマクロ的に紹介する視点が取られている。

本書で登場する雑誌や新聞は「エスクァイヤ」「ニューヨーカー」「ライフ」「ピープル」「ニューヨーク」「ローリングストーン」「ニューヨークタイムズ日曜版」などであるが、扱われる内容は政治的なものや社会的なものではなく、文化的なものがほとんどである。

例えば、最初に収録されている「一九五一年のキャッチャー」は、サリンジャーの「ライ麦畑でつまかえて」出版30周年を記念して「エスクァイヤ」に掲載された「熟年を迎えたキャッチャー」という小さな特集記事を取り上げたもの。

村上さんは「ライ麦畑のキャッチャー」と訳しているけれど、この小説は30周年を迎えた現在でも売れ続けているそうで、「俗に二十年経って評価が変らなければその小説は本物と言われるが、三十年を経た「キャッチャー」は「白鯨」や「ギャツビイ」と肩を並べてアメリカ文学の名誉の殿堂入りを遂げる雰囲気が濃厚になってきた」と、村上さんは述べている。

続く「ドク・チーサムの人生」は、老齢ジャズ・トランペッターの紹介記事で、コラムの終わりを、次のような引用で締めくくっている。

「私が死んじまったら、私がやっているようなタイプのジャズは消えちまうだろうね」とドクは語っている。「あんなにみんなで一生懸命やったのに、そんなものが存在したことすら忘れ去られれしまうんだろうね」(「ドク・チーサムの人生」)

こういうコラムを読んでいると、村上春樹もさすがだなあと思うのだけれど、こうした文化的なテーマはいつまでも続くものではなくて、コラムのテーマは次第に、下世話なゴシップ記事の紹介へと傾倒していく。

考えてみると、このコラムは1980年代前半のスポーツ雑誌「ナンバー」に連載されたもので、ナンバー購読者がアメリカ文学やモダンジャズの話題に興味があるとは、あまり思われないから、「ピカピカの乳房」とか「バチェラー・ボーイ」とか男性読者の喜びそうなネタに走ったのだろうか。

「『エスクァイヤ』五十年とスコット・フィッツジェラルド秘話」という、興味深いタイトルのコラムも、「フィッツジェラルドのペニスは本当に小さかったか?」という部分が取り上げられていて、期待すると肩透かしを喰らう(本当はもっと良い記事があったのではないかと思うので)。

アメリカ文学に関するものとしては「リチャード・ブローティガンの死」がある。

日本ではとても人気のあった「アメリカの鱒釣り」の作者も、「アメリカ本国での凋落ぶりは目を覆うばかりのものであった」らしいが、ブローティガン追悼とも言える、このコラムは、アメリカ文学を扱ったエッセイとして、非常に出来が良いものになっていると思う。

どうでもいい下世話なゴシップ記事の合間に、時々ちゃんとした話が混じりこんでいるので、ややこしくなりそうだが、玉石混交のテーマをごちゃごちゃに扱っているからこそ「THE SCRAP」なのかもしれない。

ところで、本書掲載記事の連載は1982年から1986年まで、単行本刊行は1987年である。

1987年の時点で「懐かしき一九八〇年代」なるタイトルは意味深だが、雑誌のゴシップ記事は旬の時期が短くて、たちまちに陳腐化してしまうから、単行本化の時点で既に「懐かしい」と感じられる内容も多かったのではないだろうか。

帯には「近過去トリップへのいざない」とあるが、毎日のように次から次へと新しいニュースが流れてくる時代に、数年前のゴシップ記事を書籍化しておくことに意味があるのかといった疑問は、どこまでも付きまといそうな気がする。

それでも、本書は現在でも一般書店で普通に入手可能なので、ある意味で時代を超えた普遍性を持っていたということなのかもしれない。

書名:THE SCRAP 懐かしの一九八〇年代
著者:村上春樹
発行:1987/2/1
出版社:文藝春秋

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じゅん
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庄野潤三生誕100年を記念して、読書ブログを立ち上げました。村上春樹さんと庄野潤三さんの作品をゆるゆる楽しんでいます。