日本文学の世界

三浦哲郎「師・井伏鱒二の思い出」さりげない言葉で人生を導いてくれた

三浦哲郎「師・井伏鱒二の思い出」読了。

本書は、筑摩書房版『井伏鱒二全集』(1996-2000)の月報に掲載されたエッセイである。

単行本は、2010年(平成22年)12月に、新潮社から刊行された。

小沼丹が井伏鱒二を紹介してくれた

本書は、井伏鱒二に対する三浦哲郎の個人的な思い出を綴ったエッセイ集である。

昭和30年6月、三浦哲郎は初めて荻窪にある井伏鱒二の自邸を訪れている。

まだ早稲田大学の学生だった三浦哲郎を、井伏さんに引き合わせてくれたのは、早稲田で英文科の助教授をしていた小沼丹だった。

その頃、同人誌に掲載された三浦哲郎の作品を、小沼さんが井伏さんに読ませたらしい。

井伏さんは「これを書いた学生に会ってみたくなった、連れてきてくれないか」と言っている、と言う。

先客は、小沼さんと仲のいい作家の吉岡達夫さんであった。「よくきた。こっちへ入って」と先生はいわれた。すすめられたまま座布団にかしこまって、聞き慣れない作家たちの話にわからぬながらも耳を傾けているうちに、先生が、「君、今度いいものを書いたね」と唐突にいわれた。(三浦哲郎「師・井伏鱒二の思い出」)

酒を御馳走になって帰るとき、井伏さんは不安げな囁き声で「三浦くん、君、酔った?」と言った。

緊張のあまりに酔えなかった三浦哲郎のことが心配になったのかもしれない。

作家・井伏鱒二の漏らした印象的な言葉

こうして井伏さんの弟子になった三浦哲郎は、様々な場面で師匠と一緒の時間を過ごすことになるのだが、本書には、作家・井伏鱒二の漏らした印象的な言葉が、折々に綴られている。

井伏邸で飲んでいるときには太宰治の話になった。

「太宰はよかったなあ」と先生は、暗くなった庭へ目をしばたたきながらいわれる。「ちょうど今時刻、縁側から今晩はあとやってくるんだ。竹を割ったような気持ちいい性格でね。……生きてりゃよかったのに……」(三浦哲郎「師・井伏鱒二の思い出」)

井伏さんには寂しがり屋の一面があったらしく、とりわけ酒席に取り残される寂しさが堪らないようだった。

「一人去り、二人去り、近藤勇はただ独り」という憮然たるつぶやきを、三浦哲郎は何度も耳にしている。

荻窪の井伏邸を訪ねると、大抵の場合、机に向かって本を読んでいた。

「お仕事中じゃなかったでしょうか」同行の先輩がお尋ねすると、先生は読んでいた本をそそくさと机の下に隠しながら、「いや、詰将棋の本を読んでたんだ」とお答えになるのが常であった。(三浦哲郎「師・井伏鱒二の思い出」)

この将来の作家の未来を、井伏さんは、随分と案じていたらしい。

身なりも、平凡で、さりげないのがいい。学生服で充分じゃないか。芸術家ぶると、そこから大事なものがどんどん逃げていってしまう」

何気ない雑談をしている中にも、忠告めいた言葉が気になった。

「毎日、すこしずつでも書いてるといいね。太宰なんか、元日にも書いてたな

「新潮」に作品を発表することが決まったときは、執筆場所として、伊豆の南京荘を紹介してくれた。

「急ぐことはない、ゆっくり書いておいで。うまく書こうとしちゃ、いけないよ

その酒のペースと同じで、井伏さんは「ゆっくり」であることを好んでいたらしい。

「ホープになっちゃいけないよ。僕と一緒のホープといわれた連中は、大概途中で潰れっちまった。人目を気にしないで、自分の流儀を守るんだね。急ぐ人がいたら、道を空けてやるさ。お先にどうぞ、だよ

「お先にどうぞ、という言葉を先生はお好きであった」と、三浦哲郎は綴っている。

何気ない言葉の中に、人生を導くかのような印象深いものがある。

それが、井伏鱒二という作家だったのかもしれない。

書名:師・井伏鱒二の思い出
著者:三浦哲郎
発行:2010/12/20
出版社:新潮社

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青いバナナ
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